その額縁を割りたい

 龍水と私の関係って何だろう。
 幼なじみ?それはそう。片想い?どうだろう。彼がわざわざ作り出す二人きりの時間の価値や意図はまあまあ理解しているつもり。
 だけど龍水は私に近づかない。いつも少し離れて私の挙動を見守り甘ったるく眺めている。そう、私は彼に鑑賞されている。
 彼の目を通して存在する私は額縁に入れられている。私は彼に群がる女の人みたいに美しくも可愛くもないのに。別に卑下をしたつもりはない。それだけ彼の全てが一流で洗練されているということだ。
 龍水は何とも関連のない私を黙って鑑賞し、いっとき身も心も休めたいと思っている。だから私もその願いを叶える。彼は何も言わない私に甘えているし、私も何も言わないことで彼に甘える。
 もしかしたらお互い沈黙を強いられているのかもしれない二人きりの時間。永遠に続く訳がない。私は描かれた人物と違ってこうして思考し、欲にまみれているんだから。

「…もしもし」
「珪。今自宅か?」
「そうだよ」
「海を見ないか?」
「いいよ、付き合ってあげる」
「迎えを寄越している。現地で落ち合おう」
「うん」

 身支度を終えるのを狙いすましたかのようにインターホンが鳴った。対応していた母が何か言いたげな表情で窺ってくる。仕方のないことだけど、母にとっての龍水は世間を騒がす七海財閥の問題児だった。
 目を合わせないようにして、私はお迎えの車に乗り込んだ。
 龍水が指定する海岸は私の自宅から30分もかからない(でもそれは運転手さんがすごく上手に飛ばしているからかも)。お礼を言って車から降り、人影を探した。いかにもビーチに相応しいつるりと安っぽい白の椅子に座り、同じ素材のテーブルに頬杖をついた龍水がいた。

「お待たせ」
「ああ」
「歩く?」
「いや、いい。波を見ている」
「そう」

 砂浜の後方に置かれたそれらは一つずつなので、私が腰を下ろせる場所はない。レディファーストを身につける彼が実践しないのは目的があるから。
 私はしばらくテーブルに体重をかけ、それから退屈をまぎらわせる体で波打ち際へ歩む。目的通り、"絵の中の人"になってやる。
 私だってこの海が好き。夜になる直前の複雑な模様の空を見送るのが好き。好きな人の眼差しを全部受け止められるこの時間が好き。
 でも本当はいや。あなたの世界の私は遠すぎる。私の世界にあなたは映ってすらいない。
 どうしてあなたは満足しているの、こんな私たちに。世界一の欲しがりのくせに。
 私はずっと勘違いしていたの?伝えなくても通じ合えていると頬を染めたのは全部惨めな思い込みで、私は精神安定剤以上の役割は求められないの?
 そんなのいやだよ。いつまでもこのままでいたくないよ。破片が突き刺さって泣き叫ぶ羽目になっても、割らなきゃ、今日、その額縁を。

「……りゅーすいー!」
「!?…どうした!?」
「あのねーえー!」
「待て、そっちへ行く!」

 彼が急いで立ち上がり、砂浜とは思えないためらいのなさで駆けてくる。でも、やっぱりそばまで来てくれず、何歩か分を隔てて止まってしまった。

「…なんだ?」
「聞いていい?」
「何を?」
「どうしてあなたは私を遠くから鑑賞するの?」
「!!」
「いつからだっけ。でも、いつからか今以上に来てくれること、なくなったね。何も言ってほしくなさそうだったから気にしないフリしてた。でも限界。今日、大事な日なの」

 突風が吹いた。私の言葉に呼応するかのように。
 髪と目を守るために反射で動く。そうして何度か頭を振って姿勢を正した私とは対照的に、彼は一切身じろぎせず、ぐちゃぐちゃの前髪の隙間からこちらをじっと覗いていた。
 私の覚悟が伝わったのだろう。気の抜けたとも言えそうな、リラックスしたプライベートな表情ではなく、眉を吊り上げ唇を固く結んでいる。けれど、少ししてまた力みは失われていった。
 その後彼は一度まぶたを下ろし、髪をかき上げ綺麗に整え、同じだけの覚悟の眼光で改めて私を射抜いた。
 心臓の音がどんどんうるさくなって、手の指先が冷たくなっていく。

「………このような心情は唯一だ」
「…?」
「貴様がたまらなく欲しい」
「!?」
「だが、俺がひとたび踏み込んでしまえばこの景色は壊れ、貴様も俺の元を去ってしまうのではないかと、そのような懸念が頭から離れない。ずっと」
「…………」

 今の状態を絶句と表すのだろう。
 だって、あの龍水が。いついかなる時でも世界一の欲しがりで、どんな人でも自分色に染めてしまえる龍水が。ためらっている。私を。
 どうして。
 そんなの、釣り合ってない。私の特別と、彼が今晒してくれた特別は、きっと重みが違う。
 あぁ、何か、何か言わなきゃ。言わせたんだから。
 もっと差し出さなきゃ。少しでもその重みに近づけるように。

「…あっ!あなたも!そんな…風に……考えるんだ…」
「まあな」

 後悔より先に彼が返事する。

「ただ歩み寄っただけのつもりでも、俺は多くを踏みにじっていたようだから」
「え?……誰の…話?」
「聞き流せ」
「無理だよ…」
「フゥン、では好きにしろ。零したのは俺だ」
「……」
「……珪、俺は」
「待って」
「言わせてくれ」
「やだ!」
「……」
「私が…言うの…言わなきゃ……だから待って…!」
「……分かった」

 片腕を上げかけた龍水が直立に戻っていく。その姿がみるみる滲む。

「…わた…私…全部あなたに丸投げだった…!求められるのを…待つだけで、どうして欲しがってくれないのって…あなたを責めてた…。ごめんなさい、ひどかった…!」
「そんなことは…!」
「私が言うの!」
「っ」

 震えが、涙が止まらない。
 たった一つを伝えようとするだけで、私の心は凍えてしまっている。ならあなたは何を削って数多の命運を背負った決断を下し続けてきたの?そして、私に対しては、そういう決断から解放されたいと、そんな甘え方をしてくれていたの?
 特別に想われたいのなら、私だって特別な振る舞いをしなきゃだめだった。もっと早くに気づけていれば、きっとこんな私でも、もっと早くあなたの不安を溶かしてあげられたかもしれないのに。
 手遅れになるのはいやだと、強く思った。

「好きだよ、龍水…!どこにも行ったりしないから…だからもう遠くから私を見ないで、ちゃんと隣にいて、ずっと…!」

 龍水の顔、ぼやけて見えない。でも、でもさっきより大きく映ってる。大きな右手が、背中側の人差し指が迫ってくる。
 目尻の涙を掬われて、半分の視界が一度きらりと光って晴れていた。まばたきをしたら、とても切なそうに、それでも瞳を細めてめいっぱい微笑んだ龍水がすぐ近くにいた。
 瞬間、ぞくんと感じたことのない痺れが半身だけに響いていた。

「珪」
「んっ」
「珪、ありがとう」

 彼の胸の中へ抱き寄せられる。
 音、すごい音。あぁこれ、彼の音。私と一緒で、ばくばく轟いている。

「貴様に求められるのは何にも代え難い喜びだ。俺も好きだ。愛している」
「っ…う〜〜…!」

 欲しかった言葉をついに贈られて、広い背にしがみつき、こくこくと何度もうなずいた。笑う気配がして、ぎゅうっと心臓と喉が締めつけられた。

「すまなかった」
「何で謝るのぉ…!?」
「ああ…。何を恐れていたのだろうな。俺しか手に出来ない無数の光がその先にあったというのに」
「……」
「珪、結婚しよう。俺の家族になってくれ」
「結婚…?もう…?」
「社会的にも精神的にも肉体的にも一刻も早く貴様を独占したい」
「…でも、やだよ…」
「!?」
「まだしてないよ、恋人らしいこと、全然何も…」
「…ハッ、そうだな、貴様の言う通りだ!」

 腕をほどき、顔を見合わせる。龍水はさっきよりもっとはっきり笑っていて、もう彼から切なさも痛みも感じ取ることはなかった。
 温かくて柔らかくて、それでも芯は煮えたぎる唯一の眼差し。私の中の最後の冷たさが吹き飛んでいく。

「改めて伝えよう。俺と恋人になってくれ。そして時が来たら、その次に家族になろう」
「うんっ…!」

 私も精一杯の笑顔で応えたら、がしりと腰を掴まれ持ち上げられた。そうして映画のワンシーンみたいに身長差を埋めて首元に抱きついた。少しして砂の上に降り、同時に額に口づけを受ける。恥ずかしさより先に、"恋人らしいこと"を早速実践してくれているんだと嬉しくなった。

「さあ、次は夜景デートの手配だな!」
「あっ、行きたいけど…今日は帰らなきゃ」
「む、そうか。では家まで送ろう。…これが門限に阻まれるというやつか?」
「ええ?どうだろね」
「それから、貴様の両親に頭を下げたい。身一つだが、それでも」
「…うん」

 自然と手を繋いで、短い間黙って波の音を聞いた。月がそろそろ存在を主張し始めていて、風が夜の冷たさに移っていく。怖くはない。ただ、人が灯す明かりが恋しいなと思った。

「龍水、一つ確認」
「なんだ?」
「私、絵の中の乙女みたいに美しくも気高くもないよ」
「俺の目に映る貴様の尊さはどんな女神を以てしても喩えられん。が、貴様がそういうことを言いたいのではないとも理解している」
「うん。悪魔もびっくりの欲深さだよ」
「そうか。楽しみだ」
「キスして。とびきりロマンチックに」

 ぐい。
 強引に、でも優しく支えて、ほんのわずかでも目を合わせて意思を示して。長いけど、一度だけ。
 百点満点を実践され、花丸を返せないどころか何も言えなくなってしまった。

「……」
「珪?」
「……」
「不合格か?」
「ばか……顔見て言ってよ…」
「貴様を前にすると己への信頼が著しく霞む」
「ばーかー…そういうのいいから…」
「ではこれきりだ」
「……腰抜けそう……連れてって…」
「はっはー!愛おしいな!任せておけ!」

 頼むや否や、龍水は軽々と私を抱き上げ嬉しそうに頬ずりを繰り返した。私がわずかに真似すると、一つ音を立ててそこに吸いつきにっと笑ってから、執事さんが待つ車まで丁寧に運んでくれた。
 きっと全部上手くいくよ。これからは、すぐそばであなたを癒せるようたくさん笑うから、あなたも同じだけ、そうしてね。






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