石神千空の猫箱

(どうやら俺は、あいつのことが好き、らしい)

 石神千空は思った。仕事の手をいっとき止め、同じ班の女子や、女子の集まりを目ざとく見つけたあさぎりゲンと共に談笑する彼女をそっと盗み見ながら。
 何故"らしい"なのか。それは単純に初めての経験だから。辞書を筆頭に、書籍に掲載されていた具体的な症状がいくつか現れている。彼女の動向の把握を求め、つい今のように観察してしまっている。彼女の声がよく耳に入るようになり、その度思考に一瞬空白が挟まる。
 これまでの人生、誰が相手でも印象や接し方にほとんど差はなかった。だからこの程度の相違でも彼にとっては重大な事柄であり、これまで持ったことのない感情への推測に繋がった。
 それでも何故"らしい"なのか。それは症状の一部をまだ味わっていないから。心が千々に乱れる苦しみも、次々溢れる矛盾とやらも今のところ襲ってくる様子がない。
 好意とはこのように凪いだものではないはず、と彼は疑問を抱いている。

(何でこんなに冷静なんだ?俺は)

 他人事みたいで、観測者の視点から俯瞰しているようで。科学者の性分だとよくよく納得して、さらに腑に落ちる。
 彼は自分が恋愛事に巻き込まれる面倒を常々望んでいなかった。ただ一日を生きるだけでも大変なこの石世界ではなおさら。繁殖本能と惚れた腫れたは決して表裏一体ではなく、生活基盤や文明が整った上での娯楽の一種ではないのかと。
 要するに、自覚したが認めたくなかった。今ならそれは気の迷いだバグだ、判断し直せ修正パッチを当てろと穏やかに理性的に諭せる。そんな風に考える。
 彼女の一挙手一投足に気を配りながら。

(……あの猫みてえだな。詳細はまるで違うが)

 量子力学界の有名な思考実験に対する俗物的な解釈。
 箱の中の猫の生死は蓋を開けた瞬間に決定する。つまり、開けるまで物事の状態は確定せずうつろっている。発信者の意図とは逆の結論で広まってしまったこの内容は創作者に好まれ、科学に明るくない人々への知名度こそ異様に高い。
 恋を知った石神千空と、知らないままの石神千空。その二面が箱の中に入っており、そろそろ蓋が開かれようとしている。彼自身は後者でありたいものの、第三者に観測してもらわなければこの理論は進行しない。誰に?どうやって?

(誰かに、あいつへの好意を看破…指摘されたら認めざるを得ねえ。ほーん、悪くねえな)

 外へ漏れる程の熱量ならば、これまでの主義に反してでも押し通したい心変わりなのだろう(不本意さは残るが)。誰にも気づかれないのならば、塗り潰していいその程度の揺らぎなのだろう。

(行動はこれまでと変わらねえように。期限は、そうだな、ひと月取ってみっか)

 まるで縁のなかった方向性の検証の始まりに、彼の知識欲は高揚感を覚えていた。

*

 一週間、二週間、三週間と過ぎ、事態は一切の進展を見せなかった。それは当然で、造船に専念する千空と食品加工に携わる彼女の接点が現在まるでないからである。一応食事の席などで近づいた場面は何度もあったが、直接の会話は発生せず、それ故彼の求める指摘は誰からも挙がってこなかった。
 第三者に判定してもらうためには、交流する様をはっきり見せなければならない。そんな最低限の努力をすっかり忘れてここまで来てしまった。

「しゃあねえな…ちょうど手も空いたし行くか」
「何か言ったかー千空?」
「ちーと他のチームの現状確認してくるわ」
「おぅこっちは任せとけ!んで龍水、ここなんだけどよー…」
「フゥン、見せてみろ」

 帆船模型の複製品作りに奮闘するクロムにそう告げ、千空が作業所を後にする。しかし宣言とは裏腹に寄り道はせず、目当ての人物がいるであろう小規模の厨房を真っすぐ目指した。
 フランソワが指揮を執るメインの調理場とは異なり、そこは主に保存食の仕込みを行う施設だった。そのためやや外れに位置し、彼が普段立ち入ることはない。
 それでも食に関わる場のため、人の出入り自体は多いはずだった。しかし。

「マジか」
「えっ?あれ、千空どうしたの?こんなとこ来るなんて」

 彼女一人しか見当たらないではないか。
 これだと検証にならない。かといってこのままとんぼ返りは不審でしかない。彼は仕方なく、あらかじめ考えていた会話の起点を口にした。

「教えた通りに果物浸かってっか見に来た」
「うえ、抜き打ち審査ってやつ?」
「あと何かつまむもん寄越せ」
「えー?フランソワのところの方が何でもあるでしょー?」
「思い出した時に食えるやつがいいんだよ」
「ああそういう。じゃあ見繕う間にチェックしててよ、その辺の瓶」

 棚の一部を指差してから、彼女が背を向けた。彼は律儀に瓶の具合を確かめる。悪い箇所もなく早々に終え、いくつかの袋を開いて物色する彼女の動きを見守った。

「えーっと、これかな……これか…」
(…無防備だっつの。野郎と二人きりなのに)
「……あ゙?」
「え?」
「いや」
「もしかしてまずいところあった!?」

 振り返って再度棚を差された。

「違ぇ」
「ホント?ちょっとでも気になるならちゃんと言ってよ」
「違ぇって」
「そう…?じゃあ、はい、これ。干し肉細かくしたやつ」

 戻ってきた彼女に巾着を託される。予想より重く、千空は顔を上げ目で問いかけた。

「クロムと龍水の分もいるでしょ?皆部屋にこもって頑張ってるもんね」

 わずかに首を動かし、にこりと微笑まれた。
 体の中に風が吹き、後ろの出口へ抜けていく。そういう錯覚が千空の神経を支配していた。

(見てる、ちゃんと。俺のことを)

 彼が誰と行動を共にして、どう一日を過ごしているかを。

(俺だけ、じゃねえ)

 誰かとの取り合わせ。皆のうちの一人。

(待て、この思考は)

 根拠になってしまうのでは。
 反応したのは箱の蓋。

「あとねえ、これも。今食べちゃってよ、ナッツ塩で炒ったの」
「!」
「とっておきだから、こんだけしかないの。ずっともったいぶってたけど、そうしてよかったや。はい、半分こ」

 にしし、と、彼女が今度は歯を晒して笑った。
 瞬間、千空の胸の内、否、箱の中身は聞いたことのない音で爆ぜていた。
 その笑顔。

(ずりいだろ)

 可愛い。

「……っ!」

 そうして勢いよく蓋は左右に開かれ、中身が飛び出てくる。それがどちらの"千空"なのか、目視するまでもない。

(あ゙ーーークソ、こねくり回しすぎた)

 状態がうつろう話は結局量子にしか適用されず、それ以外の世界のあらゆる事象は最初から確定していて、覆う箱だの理屈だの建前だのに隠されているだけというのに。
 それに何より。石神千空は科学者である。箱の中に入れられた彼も、それを上から眺める彼も、真実の追求を他者に丸投げするはずがなかった。知りたいはずだ、己の手で頭で心で、何でも、どんなことも一つたりとも逃さず。
 つまるところ、今回の実験はただの空回りで、強がりで、彼が自分の気持ちを認める期間を設けるためで、意味がなかった訳ではないものの、非常にしょうもない独り相撲、という結果になっていた。

「…千空?いらないの?小腹減ってない?」
「……ククク、あ゙ー、食う」

 手渡され、ぼりぼり荒く咀嚼して塩辛い実を食らう。最後に指先を舐め、あぁ彼女と触れたところを、馬鹿かよと、ひと息でうろたえて毒づいた。

「好きだわ」
「へっ!?」
「美味いな」
「そ、そう?えと、じゃあ作ったらまたおすそ分けするね…」
「おー」

 これまで知らなかったものをきちんと解明することが出来、決着をつけ。
 三週間前と比べてずいぶん遠い地点へ降り立ったものの、彼は満足し、さらなる未知の世界へ足を踏み込む覚悟を決めていた。

*

「千空ちゃんってさあ」
「ん?」
「惚れちゃってんでしょ。あの子に」
「!!!」
「んんんやっぱり〜♪言いふらしたりしないからさ、聞かせて!恋バナ!」
「……はぁー」
「ねーねーダメ〜?」
「箱の中身をどうとでも暴けるこいつがいたんだった。先に自分で認めといて大正解だったわ…」
「??なに、何の話?」






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