朝焼けと睦言

 龍水と二人きりで会うのは案外早朝が多い。彼は昼夜問わず多忙で住居も別だし。星空の下で愛を囁く方が確かにロマンチックではあるけれど、彼には真っ青な空がきっと一番相応しい。
 夜明け前に起き出して、小高い立地である龍水宅を訪れる。建物には入らずバルコニーに相当するスペースへ。崖のへりからこちらを守るレンガ造りの塀に肘を置いたり寄りかかって、家主との会話に花を咲かせていく。
 そうしたら、言葉がそれぞれ胸の内に沈んで浮いてこない一幕が生まれる。別に、どちらも口下手じゃないのに、必ず。それが起きたら素直に彼の接近を許し、肩を抱かれ、両目を閉じる。
 唇を合わせて、また会話を続けるための距離に戻る。閑話休題ってやつだろうかなんて間抜けなことを考える。龍水も余韻を楽しみ、何だか密度の薄れた眼差しで私を見つめている。
 終わりかけの朝焼けの白と、青の始まりが龍水の背面に広がっていた。
 果てのないもの。底なしの欲を一切合切放出しているだけに、彼が一人で背負っても全くもって引けを取らない。流石だなと思う。

「…どこを見ている?」

 いつの間にか、普段通りの活力が凝縮された瞳が迫っていた。

「後ろの空。似合うね、ほんと…似合う」
「フゥン…確認を挟んで正解だった」
「なに?」
「妬かせる真似はしてくれるなと。無粋の極みだろう?」
「妬くんだ」
「当然だ」

 …背負えるのは所詮人一人の視界に入る分だけ。本当はそれよりずっとずっと広くて遠いから、この空はいとも簡単にこの人を連れ去ってしまうだろう。それを本人が望み、"行く"のであっても、私にとっては"奪われる"と大して変わらない。
 龍水はそう遠くないいつか、この空すら突き破ってその先に至ってしまう。たくさんのものを得るため、たくさんのものを振り切って。
 と、唐突に両腋下が圧迫された。いや、前兆はちゃんとあったけど見逃していただけか。
 彼が私を塀に乗せようと持ち上げたので従った。目線の高さが同じになる。彼の特徴的な犬歯が角度をつけて晒され私に目がける。
 唇が開いたまま覆われ彼が吸いながら閉じる。繋がりが切れ、しかしほとんど位置を変えずに睨まれた。
 今の私の視界はただ龍水の顔面のみ。

「…空も対象だった?」
「そのようだ」
「ふーん、そう」
「おかしいか?」
「意外なだけ。私が男と二人きりになっても全然平気なのに」
「逢瀬の片鱗を感じ取れば荒れ狂うぜ?見たいか?」
「馬鹿、浮気を推奨するな。ぶすいりゅーすい」
「む…」

 言い負けた彼の表情が苦いものになった。恥じたのか、誤魔化したかったのか、拗ねるように私の肩口に頭を埋め、ぎゅうぎゅう抱きついてくる。
 馬鹿、今甘えられたって別の動悸が大きくなるだけなんだけど。

「降ろして」
「勧めてなどいない」
「知ってる。怖い、落ちる、早く」
「!」

 再度顔色を変え、一転急いた手つきで私を横に抱き上げた。

「すまん、無配慮な行動だった」
「……」
「機嫌を直してくれ、珪」
「……」
「珪?」
「……こんなドキドキで終わるのは嫌」
「ああ…同感だ」

 もう少しも不安定にならないよう抱きしめられ、幕の向こう側へ運ばれていく。彼は寝室を軽く見渡し、ソファを選んでゆっくり腰を下ろした。座る彼の腿に乗る形になり、再び視線が揃った。
 さらりと私の髪を整え、龍水は深く微笑む。こうして黙って見つめれば私が勝手にときめくことを彼はよく知っている。そして、私の身体から放たれ始める"不機嫌"に偽装されたオーラを浴びるのがたまらないという。悪趣味だけど、偽る私も大概だしおあいこなんだろう。

「どうした?何か言いたげだ」
「まあ、浪漫を中断したのは悪いと思っているよ」
「塀に座る話か?確かに古典的なシチュエーションだが、現実だと危険極まりなかったな」
「うん」
「それに、浪漫云々なら今もそうだろう」
「そうかもね。……近い」
「何に妬くか分からんものでな」
「何それ…んむ……ん、そんな、魅惑的なものがここにあるんぅ……ちょっと、あると?」
「先程脱いだ寝間着は?」
「あ〜〜ダメダメちょうだい」
「そらみたことか」
「あっは」
「ハッ。…痕をつけていいか?」
「えー何で?どこに?」
「理由?無粋だな。場所は…ここなら見えないだろう」
「んっ!…もう、許可してないんだけど」

 襟元を指で下げられ、あっという間に印を刻まれていた。器用で会得が早すぎるのも考えものだ。こんな行為をしたい相手は私が初めてだという口説き文句を否定したくなってしまう。

「誰かにバレたら暴れるから」
「舐めるな、俺の測量を」
「ハァー?才能の無駄遣いするなって言ってんの」

 嘘。本当は私に入れ込んでいると知る度におかしい程舞い上がってばかり。

「フゥン?今のはよく分からなかったな」
「照れ隠しですけど何か?」
「ならいい!」

 むちゅ、と仕上げのキスをされ、二人して立ち上がった。私はサイドテーブルに乗った帽子を取り、示す。彼が静かにかがみ、まるで戴冠式のようにそれを受け止めてから背を正しにいと笑ってみせる。
 もう、私というしがらみを解いた空と海の覇者だ。でも構わない。脱ぎさえすれば私の龍水なのだから。そのどちらの彼も好きだから。

「さーて、今日もぼちぼちやりますか」 
「珪」
「んー?」

 振り返れば、被ったばかりの帽子を手に持ち歩みを止めていた。

「一日の終わりにもう一度貴様と会いたい。いいか?」
「…いいよ。ここにいるから寝るまでに戻ってきてよね」
「ああ」

 髪をかき上げ改めて船長に戻る。あとは大股で去っていく。私はその場に留まり跳ねた心臓を静めている。
 あぁ、こうして明確に切り替える彼が私の分別を奪いそうになる。あの背中に飛び込まずに済んでよかった。
 深呼吸を何度か繰り返してから一歩踏み出し、ベッドの上で洗濯を待つ寝間着が目に留まり、もう一度息を吸ってはいて、私は部屋を後にした。






- ナノ -