足音

 歩く音でそれが誰かを判別するのは、僕に限った話ではなく他の人も行うことのようだった。
 だけど例えば、人混みの中から特定の音を拾ったり、そのまま追跡したり、相手の状態や感情を推し量ることが出来るのは、平均よりずっと聴覚が発達している僕だけの特技で癖のようになっていた。
 石の世界で目覚めてからも、この特技は役に立った。見張り、諍いの検知、応用して獣の狩り。最初の二つは己の身を守るためで、属していた"司帝国"に心を許し切らない証拠だった。だから、千空率いる"科学王国"と和解が成立したあの時から、僕はこの癖をなるべく封じることにした。それで問題や不便は何も起きず、皆で掴み取った新しい日々を実感する。
 けれど最近。少しずつ少しずつ自制が効かなくなってきているんだ。やめなければと思う一方で、誰にも知られないからいいだろうと僕の中の一人が囁く。
 あの子の音を忘れるな。聞き逃すな。変化を全て把握しろ。
 あぁだって、僕は気づいてしまったから。僕の後ろ姿を見つけた君が、全く無意識のまま小さく一度弾むことを。
 ほら、こんな風に。

「こんにちは、羽京。何してるの?」
「こんにちは、珪ちゃん。特に何もしてないよ。強いて言うなら…村の音を耳に入れてた、かな」
「音?」

 背後から顔を出してきた珪ちゃんが首をかしげた。僕はにっこり笑って前を向く。石神村の営みの全景を視界に収められるこの場所は、僕のお気に入りの一つだった。
 踏み台兼椅子の木箱に空きを作る。珪ちゃんもそこに腰掛け、僕を見上げた。

「火をおこしたり、食材や材木を運んだり、足音が行き交って、そこに波のさざめきや森のざわめきが混じって…平和だなって」
「ふうん?あっちはそうじゃなかったの?」
「…波はなかったよ。海は遠かったから」
「ああそっか。羽京、海好きだもんね」
「そうだね」

 珪ちゃんを始めとした村人の多くは知らない。復活者の集まりがただの仲良しこよしではなかったことを。秩序の裏で、物言えぬ犠牲者が文字通り積み上がっていたことを。
 けれど、その知らないことこそが、僕にとって救いの一つであり、手にした平和の象徴だった。

「まあでも、羽京がここを気に入ってくれて嬉しいな。あっちからたった一人で来て、寂しくないかなーって思ってたから」
「ありがとう。寂しさは全くないよ。お年寄りは皆優しいし、子どもたちは可愛いし、ジャスパーさんとターコイズさんがいつも気にかけてくれるからね。それから、珪ちゃんもいる」
「私?クロムじゃなくて?」
「うん、珪ちゃん」

 再び首をかしげた彼女の頬はほんのりと色づいていた。
 可愛いな。そんな顔作ってる自覚がないところも本当に可愛い。
 あぁ、訊ねてしまいたいな。どうして村に戻ったのって。ジャスパーさんとターコイズさんの手伝いに名乗りを上げて友達に反対されたことも、出発の日にその子や家族の前で泣いたことも、僕には全部聞こえていたんだ。
 でもまだ我慢。本来よりずっと静かであろうこの村の中で、君の無邪気な足音がいつも響いてほしいから。いつか質が変わるその時は、出来ればもう少し先がいい。

「…羽京は村に戻ったのが私でよかったって思ってるの?」
「そういうこと。君には向こうでもお世話になったからね。心強いよ」
「へへへ、そっか」

 に、と歯を見せて笑った彼女は生命力に溢れていて、日差しと潮風をその身いっぱいに浴びて、本当に尊い姿だと思った。
 僕は、石化の厄災に屈さなかった人類が、3700年間命を繋ぎ続けた石神村が、そしてその光の先端で力強く生きる珪ちゃんが大好きなんだ。だからきっと、いいや、必ず守ってみせるから。

「珪!ちょっと手貸してー!」
「あっ、はーい!じゃあ羽京、行ってくるね」
「僕も手伝うよ」
「えー、悪いよ、休んでて」
「僕がしたいだけだから。ほら、行こう」

 とと、とん。何とも表現の難しい特別な音。もしかして、案外僕もこれと同じリズムを奏でているんだろうか。それなら…うん、それは、胸を張って誇れることなんだと思う。

「なーに?今の」
「うん?ちょっと再現出来るか試しただけ」
「何を?」
「内緒」
「えー、意地悪。……よっ、こんな、感じ?」
「あはは、いいんじゃない」

 あーあ、やっぱり自制なんて最初から無理な話だった。それなら、きちんと認めなきゃ。季節の移ろいに一つずつ気づいていくように、彼女の心が乗ったこの足音を一つずつ僕の思い出に加えていきたいんだと。
 珪ちゃん。僕は君と出会えて、君を好きになって本当に本当に幸せだよ。そしていつか、君の口から同じ言葉が出るその時が来てほしいと願ってる。言わせてもいいのかもしれないけど、今はただ、静かに待ってみたいんだ。

「羽京?あなたは別にいいのよ?」
「そうそう、働きすぎだよ」
「いいんです、下心だから」
「へっ?」
「珪ちゃん、これが終わったら海に連れていってほしいんだ。どこまで立ち入っていいか把握したくて。クロムだとどこまでも行っちゃいそうだしね」
「あー、昔は漁場を荒らして怒られまくってたね…。分かった、じゃあ早く終わらせよう!」
「うん」
「なら遠慮なく頼むわよ。まずは向こうの藁束を…」

 ターコイズさんと珪ちゃんが並んで歩いていく。僕は自分の唇が深い弧を描いたことを自覚しながら、二人の後に続いていった。






- ナノ -