5.願望

 まどろんでいたゴルベーザの意識が浮かび上がった。予想以上に睡眠は取れていた。
 図書館を出ると、家中に食事らしき匂いがただよっていることを知る。アンヘルがかまどの前に立ち、朝食を作っているようだった。

「あ、おはよう」
「…あぁ」
「ご飯食べる?あなた、わたしよりずっと大きいからたくさん作ったよ」
「そうか…ではいただこう」
「…んー…大きいお皿ないなぁ。ね、このお鍋でいい?」
「あぁ」

 片手鍋に取り分けられたスープが席についたゴルベーザの前に置かれた。大小様々な野菜が放り込まれている。続けて保存食である平たく焼かれたパン。アンヘルのところには小さな器と果物が乗った皿が一つずつ。
 スープを一口入れたゴルベーザの身体を手料理の温かさが巡る。思わず両目を閉じた。

(…美味い)

 ただ刻んだ野菜を煮込み、少量の香辛料で味を整えただけのこの料理に何故こんなにも心揺さぶられるのだろうか。だが、その理由は分かりきっていると、彼はそれ以上考えるのを止めた。
 黙々と食べ進める姿を不思議そうに見つめられた後、ゴルベーザが空になった食器に向かって手を合わせ、一礼した。

「美味かった」
「そうなの?すごいね、全部なくなった。やっぱり、大きい人はたくさん食べるんだね」
「そなたは…それで足りるのか?」
「うん」

 アンヘルが小さな口を開いて果物をかじり、咀嚼する。今度はゴルベーザが相手を観察する番だった。
 一緒に片付けると言った彼女の言葉に甘え、彼は図書館へ引き上げた。一歩踏み入れると、途端に向こうに居るはずの彼女の気配や物音が遠くなるのが分かった。この空間は、本来は物理的にもっと離れた場所に存在しているのだろう。
 支度を進めながら、アンヘルがまだ読んでいないと言った区画を再確認する。せいぜい、あと一年。彼女の命にそのような期限を定めてはならない。心は決まっていた。

(見殺しになど出来ぬ。何としてもここから連れ出し、安全な場所へ引き渡さねば…!)

 不安はあった。いつ、この青き星にヒトの姿をしたあの謎の生命体が侵攻するか分からない。異変はすでに始まっているのかもしれない。だが、そうであったとしても、今アンヘルという少女を救うことが出来るのは、彼ただ一人なのだ。
 本を元通りにして彼女を探しに出る。昨日と同じ、小さな庭の大木の根元に座り、何をするでもなくただぼうと日光を浴びていた。ゴルベーザの姿を見て、いくらか生気を取り戻したような顔つきになった。
 数歩離れたところで彼は止まり、話を切り出す。

「これからどうするのだ」
「本を読むよ」
「では、その後は?」
「……」
「死ぬつもりか?」
「そうだね」
「ならぬ…考え直すのだ。そなたを閉じ込めていた結界は消滅した。今なら、どこへだって行けるのだぞ」
「…どこへでも…?」
「あぁ。本の中にあった景色をその目で見たくはないか?やりたいことはないか?私も出来うる限り、力を貸そう」
「やりたいこと…?………あっ」

 動きを止めていたアンヘルが不意に顔を上げた。立ち上がり、ゴルベーザの元へ駆け寄る。すぐ前で目いっぱい彼を見上げ、彼女はほんの少し頬を色づかせて言った。

「わたし、あなたを手をつなぎたい」
「………何だと?」
「あのね、わたし、夢を見たの。お母さんと手をつないで、どこかを歩いていた。それで、わたし、あなたともつなぎたいなぁって、夢の中で思ってたの。今思い出したよ」
「……」
「だめ?」

 小首をかしげ尋ねられ、思わずゴルベーザは一歩引く。彼女の右手が伸ばされたのを見て、反射的に自らの腕を上げていた。

「駄目だ」

 この手を取ってしまえば、それは彼女を奈落へ突き落とすことになる。
 しかし、取らなければ。

「…だめ…?」

 うなだれる彼女を、それでも引き留められる。

「………今は駄目だ」
「そうなの?じゃあ、いつならいいの?」
「私が良いと思った時だ」
「……」
「私はここを発たねばならぬ。そなたも一緒に来るとよい」
「えっ…で、でも…」
「大丈夫だ…私がそなたの前へ現れたのが、何よりの証拠だろう」

 アンヘルが不安げに眉を下げた。そのままうつむき、長い時間黙り込んでから、とうとうわずかにうなずいた。
 ゴルベーザが再び口を開く。その声色は、彼が意識せずとも威圧感が薄れ、わずかでも優しげなものへと変化を始めていた。

「さぁ、支度をするのだ。私はここで待っていよう」
「支度…?支度って、何をすればいいの?」
「あぁ、そうか…」

 手招きし、アンヘルと共に家へ戻る。指示を出してやりながら荷造りを進めていく。やはりというべきか、彼女は一切執着を見せず、言われた通りの品だけを集め、残された物に見向きもしなかった。
 ふと、棚の上に倒された写真立てにゴルベーザが気づいた。彼女に見られないようにしてそっと取り上げる。アンヘルらしき幼子と、彼女を膝に乗せて座る、彼女そっくりの妙齢の女性。そして、細身の穏やかな佇まいの男性。白黒の家族三人が写っていた。
 しばらく眺めた後、素早く中身を抜き取った。裏には四人分の名前が記されていた。親子たちに加え、撮影者であるクルーヤ。
 彼はその写真を懐に収め、アンヘルの呼びかけに応えるため、動いた。






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