4.結界

 アンヘルが再び"話"を待っていると気づき、ゴルベーザは気まずそうに目を泳がせた。ここまで一途に眼差しを送られた経験が彼には無いのだ。故に、どうしてやるべきか分からない。

「……」
「……」
「……そなたは」
「うん」
「そなたは…今日まで、どうやって過ごしてきたのだ?」
「どうやって?うーん、寝て、起きて、あとはずっと本を読んでいるよ。ほら、さっきみたいに、外で」
「…そうか」
「うん」

 会話が途切れた。ゴルベーザが無意識に息を詰める。と。

「…もしかして、あなたも本読みたいの?」
「ん?あ、あぁ…そうだな…」
「そっか。じゃあこっちに来て。きっとびっくりするよ」

 アンヘルが立ち上がり、奥の扉に手をかけた。廊下の突き当たりまで歩き、壁に触れる。淡い光が生まれ、魔力の気配が一気に濃くなった。

「…!!」

 壁が揺らめき、新たな道が出来ていた。その先は、書斎、いや書庫、いや、それよりはるかに広い、図書館。家の外観からは考えられない高さ、奥行き、おびただしい書物の陳列。
 一体どこと繋がってしまったのか。ゴルベーザは唖然とした様子で左右に広がる本の壁を見渡した。その横を通り、アンヘルが振り返って言う。

「すごいよね?月の技術だって、お父さん言ってた」
「月…!?」

 月。この青き星とは文字通り天と地程かけ離れた文明と技術を持った民がひっそりと眠る地。ゴルベーザの父、クルーヤの故郷である。そして、彼らの存在は青き星には知られていないはずである。
 ゴルベーザは近くの棚から一冊本を抜き出し中身を確認した。古文書と呼んでいい程古い文体だが、状態はかなり良い。ここまで劣化が抑えられているのも月の技術のおかげなのだろうか。

「あ、その辺はまだ読んでいないところだよ」

 アンヘルがいつの間にか隣へ寄っていた。

「あともう少しだったの。でも、あなたが来たから、もういいや」
「…いい、とは?」
「読む前に死んじゃってもいいってことだよ」
「……」
「わたしね、ここにある本を全部読み終わって、それでもお父さんが帰ってこなかったら死のうってずっと思ってた。でも、お父さんじゃなくて、あなたが来たから、もういいかなって」

 彼はとうとう、彼女の口から発せられる"死"という単語に動揺しなくなってしまっていた。あまりにも悲壮感無く何度も言うものだから、本気と取れなくなってしまったのだ。
 ただ、彼は彼女の別の単語に反応を示していた。

「全てか…?では、どこまで読み終えたのだ?」
「えっと、ほとんどだよ。あと残っているのはここだけ」

 彼女が両腕を広げて範囲を教える。高さは彼女の背丈を上回る程。幅は数歩歩いている。一日一冊とするならば、半年から一年分だろうか。
 その冊数自体は常識的なものだが、いかんせんこの広大な館の中ではごくごく一部に過ぎない区画なのだ。奥も、上も、見やればきりのない本、本、本。人一人が一生に全てを読破出来るのか、答えられない。それだけの数。
 有り得ない。例えこの場所に閉じ込められ、ひたすら読書だけを繰り返したとしても、彼女が生きてきた年数で読み終えるのは絶対に有り得ない。

(彼女は一体…何者なのだ…!?)

 ゴルベーザが抱いた疑問は、そのどれもがアンヘルには届かず、自身の内で渦巻くのみだった。

*

 この図書館で一夜を明かす許しをもらい、ゴルベーザは適当な冊子を抜いて机の上へ積み重ねていった。幅広い分野が揃っているようで、ただどれもが最低でも数十年以上前に出版されたものだった。彼は順に奥付を確かめ、息をついて結論を出した。

(まず間違いなく、あの娘の父は月の民か、月の民である父さんをそうだと知って交流していた者だ。父さんが死んだのは…もう三十年以上前になるのか。少なくともそれ以前の時点で彼女は存在していた。つまり…)

 外見年齢以上の年数を生きてきたということ。

(結界、か)

 彼女を閉じ込めていた妄執の檻。強すぎる想いが生んだ永遠の概念。
 全てを阻んだ結界は、彼女に孤独を強いらせるだけでなく、刻の流れをも狂わせてしまったのだろう。誰からも認識されず、それでも帰らぬ父を待ち続け、自身の境遇を理解すれば壊れてしまうだろう心を守るために、きっと彼女は自らを封じてしまった。

(惨いことだ…)

 ゴルベーザはアンヘルを憐れんだ。他人に人生を潰された己を重ね、哀しみを味わった。そしてこの地を訪れたのはやはり運命だったのだと、そう改めて思い至った。
 と、そこで一つの懸念がわき上る。彼女はきちんと眠りについたのだろうか。それが永遠のものである可能性は?

「っ…!」

 図書館を飛び出る。焦りが出た表情で、部屋の扉を次々と開けていく。目に入った小さな塊。音を立てないよう気を遣いながら近づいた。
 アンヘルがベッドの上で丸まり、すやすやと寝息を立てていた。ゴルベーザの唇からわずかな唸り声と共に盛大な安堵のため息が出る。遅れて今更激しくなる動悸。それが落ち着くようにと、ゆっくりひとつ呼吸した。
 彼女は彼の心配を知る由もなく、無垢な寝顔を浮かべている。この彼女が、世界を知ることすら出来ないまま、生を終わらせたいと願っているのだ。
 もうしばらくの間無防備な表情を見守り、何かを決意した顔つきで、ゴルベーザはそっと立ち去った。






- ナノ -