長閑
小腹が空いたなと思い立ち、食糧庫を覗いた僕は意外な先客と会うことになった。
「兄さん…と、アンヘル」
「…セシルか。どうした?」
「あぁ、ちょっと何かお腹に入れたくて。すみません、こんな時に…」
「いや…結構なことだ。好きに持っていけ」
倉庫内を軽く見渡す。二人は樽に腰掛け、野菜の皮むきや下拵えの最中のようだった。こちらを見つめていたアンヘルと目が合い、笑いかけられる。思わずぱちくりとまばたきを続けてしまった。
少し迷ってから、僕は再び口を開いた。
「あの、ここにいてもいいですか?それで…少し話が出来れば…」
「そうか、私は構わぬ。アンヘル…我々も休憩しよう」
「うん」
兄さんが近くの箱を漁り、袋を取り出した。中身は木の実の類。それを適当に広げながら、視線で座るよう促してくる。
生活というか、普段の営みというか…そういう、ある種の生命を感じる先程からの所作に、戸惑う気持ちと喜びのような感情が同時に湧き上がり、背中がむずがゆくなっていた。
どこかこの人を神格化してしまっていて、ただ僕と同じように生きる人なんだと、ようやく理解出来たのかもしれない。そしてそれをごく自然に認められたのは、僕があの別れの時からずっと年を取り、家族を持ったからなのだろう。
「セシル?」
「あ、すみません。ではお言葉に甘えて…」
ぱきん。兄さんが殻を割り、実を口に入れる。僕も倣う。
話がしたいと言ったくせに、沈黙を心地良いと思ってしまう。だけどきっと、この人は気を遣ってしまうだろうから。
「今日はここの担当でしたか」
「あぁ…本来は調理室で行うらしいが…この図体では邪魔だろう」
「そんなことないと思いますけど。というか、一軍のあなたたもこういう仕事に組み込まれているんですね」
「頻度は他の者よりずっと低いがな。全員で支え合わねば回らぬだろう」
「……」
「意外か?」
「…正直に言えばそうですけど…でも、身勝手な人じゃなくて良かったって方が大きいですかね」
「そうか」
訪れる静寂。目を少し伏せ、兄さんがまた殻を砕く。今度は同じ動作を繰り返して中身を手元に集めている。
今頃になって、この人と会話が続いたことに驚いている。もっと他人を拒絶する人だと勝手に身構えていた。壁を作っていたのは僕の方かもしれない。少しだけ恥じ入った。
そして、きっと兄さんが壁を作らない理由となっている、隣の少女に注目を移す。
アンヘル。月の民の血を引く彼女の稀有な生い立ちを、僕は兄さんから真っ先に聞かされた。僕たちの父親が"クルーヤおじさん"であることを、まだ秘めておくために。
ポロムと同年代に見える彼女は、行儀よく黙って僕たちを見守っていた。ただ、ほんのわずかに地面に届かない両足が、退屈そうにゆらゆら揺れている。
と、溜めていた木の実をいくつか取った兄さんが、それをアンヘルの口元へと運んだ。彼女は差し出されたことを知ると、両目を細めてためらいなく唇を開いた。余った分は自らの中へ。ぽりぽり、ぽりぽりと乾いた音が響く。
やがて、呆然とその様を見ていた僕に気づき、しまったと言わんばかりにうろたえて。
「セ、セシル、これはその…」
何か言い訳を継ごうとするこの人が、驚きはしたけれどますます"人間"に思えて仕方なく。
「…ふ、ふふっ」
僕は口元を押さえ笑っていた。
「あんまり自然な動きだったから見入ってしまいましたよ」
「い、いや、普段はこのようなことはせぬぞ…!」
「そうなのかい、アンヘル?」
「え?いつもくれるよ?」
「……」
「いいじゃないですか、別に」
「誤解するな。公衆の面前で行った記憶は無い」
「あぁ、そうなんですか…」
言いながら、思い至ってしまった。兄さんはこの場を公私の"私"と捉えているのだと。
頬が熱くなり、思わず隠すようにうつむく。この喜びも、彼女がいなければ知る機会を得なかったのだろうか。
兄さんの心に光を灯し、変化のきっかけを作り、他者を結ぶ一筋の懸け橋となったアンヘル。二人の関係がとても微笑ましく、しかし、羨望を覚えないと言えば嘘になる。
「…セシル」
「っ、何だい?」
呼ばれて顔を上げれば、彼女は小首をかしげたままじいとこちらを見据えていて。
「セシルも欲しいの?」
あまりに純粋な眼差しで、一言言い放った。
何故そういう考えになったのだろう。僕も兄さんもきっと同じ気持ちで、お互いとアンヘルを一度ずつ、困惑した面持ちで見比べる。
やがて兄さんは僕の方へ視線を固定し、言った。
「そうなのか?」
えぇ…あなたまで何を。だけど兄さんは動く。目の前に兄さんの指と、いくつかの木の実。
こんな人だっけなぁ。こんな人だったんだ。ぐるぐる巡る思考。だけどやっぱり、結局は嬉しい。僕を庇護の対象として、あなたの弟として扱ってくれることが。
ぱくりと口に含めば、確かに兄さんが薄く笑った。今度は全身が熱を帯びて震える。羞恥と幸福。アンヘルも満足げに微笑む。
「ありがとうございます」
「…分かっているとは思うが、他言無用だぞ」
「もちろん」
「アンヘル、そなたもな」
「秘密にすればいいの?」
「そう。僕たちだけで、大事にしたいことだからね」
「ん、分かった」
「あの、兄さん。もう少し一緒にいてもいいですか?残りを手伝いますから」
「あぁ。アンヘル…セシルにナイフを渡してやってくれ」
「はぁい」
「あ、で、出来れば素手でやれる作業だと助かります…」
あぁ、いいな。僕のもう一つの家族。この時が出来るだけ長く長く、続きますように。
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