2.少女

 少しずつ辺りの空気が清められたものへ変化していく様を、ゴルベーザは肌から感じ取っていた。むしろ逆なのかもしれない。魔導船の着陸地付近が亡霊の妄執によって汚されていて、ここにはそれが届いていないとも考えられる。
 ゴルベーザは、何故自分の頭がこのような考察を行えるほど落ち着いているのか理解出来なかった。歩みはすぐ駆け足になりそうな程速い。体は期待と何かで熱くなっている。それなのに、首から上だけ妙に晴れやかと表すべきか、とにかく思考は鮮明だった。
 やがて目の前が開けた。明らかな人工物が先にあることを認め、とうとう彼が走り寄る。それは朽ち果てた建築物だった。息を呑む。
 体の熱が脳へ回る感覚があった。ゴルベーザは入り口らしき敷居を跨ぎ、中へと入る。と言っても、屋根も内部も崩れていて、外壁がかろうじて残るだけだ。壁に空いた穴をくぐった、が正確だろう。
 瓦礫に埋もれているが、そこには確かに木材の家具らしき物が見えた。かつて何者かが生活していた跡で間違いない。彼はその場に屈み込み、家具の破片を調べ始めた。
 ふと、どこかから光が差し込んでいることに気づき、顔を上げた。瓦礫を挟んだ向こう側の壁に、かつて窓であっただろう枠が陽光を通していた。立ち上がり枠と目線を同じにすると、その奥の景色がほんの少し見えた。

(庭…?)

 外へ出て、建物の裏手に回る。彼の推測は正しかった。おおよそ円形の敷地。縁取るように植わった樹木の枝が伸び、木漏れ日がきらきらと短い草の生え揃う地面へ降り注いでいる。
 さく、と一歩その庭へ踏み込んだ。そして。

「…!!」

 ゴルベーザは己の両目を疑った。
 他より一回り以上巨大な樹の根元に一人の少女が座り込んでいた。手に本を持ち、その中身を読みふけっている。側には一羽のうさぎ。長い髪が風でさらりとなびいた。白く細い首筋に、腕に、指先に枝の葉が作った影が揺らめき、それは絵画を眺めるかのような光景だった。
 美しい、という単語が心に浮かんだのはいつ以来だろうか。ゴルベーザは動きを止め、驚愕の表情のままただじっと少女を捉えていた。
 急に強く風が吹き、少女が身じろいだ。髪を整えようとして顔を起こし、そこで初めてゴルベーザの存在に気がついた。それまで伏せられていた瞳が丸くなり、数度まばたきをして動きを止める。

「……誰……?」

 不安げに零れた小さな声は、それでもゴルベーザを現実に引き戻すには十分だった。
 少女が本を抱きしめ、樹に背を押し付けるように下がる。そして、隣で丸まっていたうさぎを思い出し、本の代わりにそれを抱き上げた。うさぎは抵抗するそぶりも見せず、じっとされるがままになっている。

「ここ…誰も入ってこれないって、お父さん言ってたのに…」

 怯えを含んだ声色で再び少女が呟いた。ゴルベーザの脳内で、断片的な情報が瞬時に繋がった。
 あぁきっと、彼女が"アンヘル"なのだ。あの亡霊が守ろうとしていた彼の娘なのだ。
 しかし、ゴルベーザは伝えなければならない。彼は長い沈黙のあと、努めて平坦に言った。

「そなたの父は死んだ。だから、私は入ることが出来たのだ」
「………そうなの?」

 うさぎに顔を埋めるようにしていた少女がゆっくりと背を正した。小首をかしげ、大きな瞳でゴルベーザを見上げている。やがて始めと同じように数度まばたきをして、うさぎに眼差しを移し、それに語り出した。

「ねぇ、お父さん死んじゃったんだって。もう帰ってこないんだって」

 彼女はうさぎを膝の上に乗せ、背中を撫でる。

「もう待たなくていいんだって。そっか…」

 少女の言葉には、父の死への衝撃や動揺といった感情が一切含まれていないようにゴルベーザには思えた。ただ淡々とうさぎに話しかけるその表情もひどく薄い。彼の目が疑問で細まる。
 やがて少女がうさぎを軽く抱き上げ、前方へ押し出すように放した。うさぎはそのまま駆けていき、少し離れたところで何事も無かった体で草を食み出す。少女がゆるりと顔を向けた。

「あのね、お願いがあるの」

 そう言われ、ゴルベーザの体は無意識に小さく揺れた。彼女はぼんやりと虚ろな瞳のまま、それまでと全く同じ調子で続けた。

「わたしを殺してほしいの」

 今度は足を一歩踏みしめる程に傾いていた。






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