32.目的

 互いの本当の気持ちを伝え合った翌日。アンヘルは正午近くまで昏々と眠り続けた。これまでより近い距離で並んで寝そべっていたゴルベーザが起床し、抱き枕の如く腕を掴まれていたことに驚いても、それを優しく解いてやるよう悪戦苦闘しても、彼女は全く目を覚まさなかった。
 ゴルベーザは今日の移動は諦め…もっとも、昨晩のうちから考えていたが、保存食の補充に精を出していた。今日食べるつもりだった獲物の肉をそれに宛がい、さらに細かく捌き、並べていく。
 作業が終わり、ナイフを水で洗っているところでテントの中の気配が動いた。しばらくしてまだ薄くしかまぶたの開いていないアンヘルが顔を出した。

「おはよう」
「おはよう……ん…わたし、ずっと眠ってた…?」
「あぁ。昨夜は遅かったからな。今日はここに留まって備えをしようと思う」
「うん…」

 器用に水を操り身支度を整えた彼女がゴルベーザの隣に腰を下ろした。じいと見上げられていることを知り、そちらへ向く。

「どうした?」
「……セオドール」
「!」
「ふふ…ちゃんと今日もあなたの名前、呼べた。これからもずっとだね…」
「…ありがとう、アンヘル。そうだな…この名前のことも含め、まだ話したいことがある」
「うん、何でも聞かせて!」
「うむ。長くなるが…手を動かしながら少しずつ進めよう」

 煮込んでいた鍋の番を任せ、ゴルベーザは集めた木の実の殻を割り、その流れで中身も軽く砕いて器に入れていった。水で溶いた粉と干し果物を混ぜ込み生地を作る。
 視線を上げアンヘルを見やれば、鍋の味見の最中だった。調味料をもう少し加え、中身をかき混ぜたところではたと目が合う。用件は、と視線で問いかけられ、彼は真顔のままわずかに首を振った。
 もうずいぶんと前から彼女は家族だった。たったそれだけの真実を認めるために、多くを費やし様々なものを傷つけた。

(彼女は私が"セオドール"として在る道を示し、赦してくれた。その道は彼女の内に抱かれている…絶対に、二度と否定はせぬ…)

 魂からの願い。ただ罪人のままであれと叫ぶ彼はすでにその中に溶け、しかし静かに対峙することが出来ていた。
 完成した昼食を取りながら、ゴルベーザは語った。自身が引き起こした戦役。憎しみの"声"から解放され、月と共に旅立ったこと。青き星を狙う侵略者。その企みを防ぐため、情報を集めようとしている現状を。自身が月の民の血を引くことも打ち明けたが、父の名がクルーヤであることは伏せた。
 穴が多く不自然な点もある説明だが、アンヘルは素直に聞き入れているようだった。時々相づちの代わりに質問を挟む。

「この星の人たちは月の民のことを知らなかったんだ…」
「そうだ。だからそなたの両親は人里を離れ、私の父も家族以外には知らさず紛れて生きていた。そなたも、他の者には話さぬよう約束してほしい」
「うん、約束する」
「私の真名についてもだ。私は"ゴルベーザ"を背負わねばならぬ」
「で、でも…」
「無論、そなたの前では"セオドール"であることを誓おう。だが、そなたの前でだけだ」
「ん…分かった。二人きりの時以外は、今まで通り"あなた"って呼ぶ…大丈夫、約束する」
「あぁ…」

 アンヘルが残りを急いで食べ進め、手を合わせた。そして器を置き、隣のゴルベーザまで距離を詰めて、おもむろに抱きついた。

「な、何だ?」
「こうやってぎゅって出来るのも二人きりの時だけでしょう?」
「そうだな…」

 支えるよう腕を回し、しばしの沈黙。一度小さく撫で、会話の再開のきっかけを作った。

「この先、私の正体が人に知られることもあろう。その時、そなたにまで憎悪の眼差しが向けられるやもしれぬ…」
「平気だよ!その時はわたしが本当のあなたのこと、みんなに教えるから。だから、あなたは心配しないで」
「……」
「信じてくれないの…?」
「いいや…そなたは私などよりずっと強いのだったな…」

 抱擁から抜け出し、アンヘルが立ち上がった。しかし再度腰を曲げ、彼の頭を両手で包む。疑問を投げかけられる前に、額に小さな唇を寄せた。

「わたしが強いかは分からないけど…でもわたし、きっとあなたよりあなたのこと知ってるよ。ずうっと見てたもの」
「!」
「新しいお水、汲んでくるね」

 彼女の姿が小さくなったと同時にゴルベーザの体は傾き、椅子代わりの資材から転げ落ちそうになり、慌てて姿勢を元に戻していた。

「…っ、…っ…」

 年甲斐もなく。殺し文句に殺されるとはこういうことなのだろう。
 火照る頬。脳に熱が回っている。両膝に肘をつき、背を丸めて額を抱え込み、早鐘を打つ鼓動に翻弄されて、それでも溢れる幸福感に、ただただ感謝の言葉を唱え続けた。

*

 保存食の焼き上がりを待つ間にアンヘルがふと口を開いた。

「そうだ…ねぇ、わたしたちってどこか目的地に向かっているの?それともいろんな町を回っているだけなの?」
「あぁ…抜けていたな。…かつて私の命で侵攻した集落の一つ…ミストの村を目指している」
「ミストの村…?何か…聞いたこと、ある…」
「本に載っていたのか?」
「分からない…でも、すごく…懐かしい言葉」

 彼女は立てた膝を抱え込み、ぐっと力を入れた。

「何だろう…思い出したい…ミストの村…」
「…一族秘伝の召喚術…異界の住人を喚ぶ力を使役する魔道士たちの村だ」
「ん…」
「歴史の表舞台に出ないながらも古くから存在し、故に排他的とも言われている」
「はいた?」
「余所者を歓迎しないという意味だ。そなたに不愉快な思いをさせてしまうのは心苦しいが…」
「あっ!」
「む」
「焦げちゃう…!」

 放置されていた生地を確認して二人が慌てふためく。火の勢いを弱めてやれやれと一息。

「ふう。あ、えっと、それでね、思い出した!ミストって、お母さんの生まれた村の名前だった!」
「何…!?」
「ずっと昔に一度だけ話してくれたの。お母さんの村に旅人のお父さんがやって来て、すぐ好き同士になったけど、みんなに結婚しちゃだめって言われたって…。だから二人で村を出たんだって」

 思いがけないアンヘルの話にゴルベーザは短く考え、導き出された結論に納得して数度うなずいた。

「成程…そなたの魔導の才に合点がいった。そなたは月の民だけでなく、召喚士の血をも継いでいたのだな…そうか…」
「で、でも、お母さん、何も教えてくれなかった…」
「何も、か?」
「わたし、お母さんが魔法を使えるなんて知らなかった…。お母さんが死んじゃって、お父さんが外に出る時に、初めてファイアを教えてもらったの…」

 ふむ、と彼が顎に手を当てる仕草を取る。横のアンヘルが沈んだ表情になっていることに気づき、励ますようにとんと背中を軽く打ってやった。

「そなたの両親に情が無かったなどとは思えぬ。そなたも知る通り、魔道士は偏見を受けやすい。加えて両親は召喚士たちからも冷遇されてしまった」
「…うん」
「娘に同じ思いをさせたくなかったのだろう」
「そっか…ありがとう」

 彼女は薄く微笑み、焼き上がった保存食を皿に取り上げていった。ビスケットに近い見た目のそれを一つ割り、片方の欠片を口に入れる。

「ちゃんと火も通っているよ。はい」
「…そのようだな」
「……ねぇ、セオドール」
「ん?」
「わたし、魔法を覚えてあなたのお手伝いが出来て、とても幸せだよ。ミストの村に行っても、きっと大丈夫。でもお父さんとお母さんは怒ってるかな…」
「そのようなことあるものか。彼らはそなたの幸せを願っている。間違いない」
「うん、それなら、良かった」

 今度はにこりと笑顔を見せ、それきり彼女は黙って調理器具の後片付けを始めた。ゴルベーザも続く。汲んだ水を元に術で量を増やし、手分けして汚れを落としていく。
 その作業が終わりに差し掛かった頃、ゴルベーザは呼びかけた。

「…あの村にも友好的な者はいる。その気質故村を出て広い世界で生きているかもしれぬが…もし会うことが出来れば…」
「うん、ありがとう。わたしね、世界にはたくさんの人がいてみんなそれぞれ違うって、旅をして分かったの。だから大丈夫なんだよ」
「そうか…」
「楽しみだなぁ…。ミストの村だけじゃなくて、これから見るものとか、会う人とか、全部」

 道具の水気の拭き取りを始めたアンヘルの横顔を見つめ、ゴルベーザは胸の奥に生まれた痛みと仄かに灯る光を同時に感じていた。
 痛みは罪の自覚。どうか、どうか滅ばずに残っていてくれ、彼女に母の故郷を見せてやってくれと、さらに深まる懇願。
 光とは、彼女が見つけ出し、分け与えられた彼女自身のそれと一つになって輝く命そのもの。未だこの両手には乾いた血と毒がこびり付いている。しかし、それでもいいと、核とも呼べる最奥の部分は何も偽らなくていいのだと教えられ、そして信じさせてくれた。

(いつの間に…頼もしいと思える顔になったのだろうか。…そなたが望んでくれる限り…私はそなたと生きたい…)
「はい、終わったよ」
「あ、あぁ」
「どうしたの?」
「いや、その…」

 言い淀む彼に、アンヘルは続きを聞きたいと瞬きを繰り返して紫の瞳を見上げる。
 眉間の皺が浅くなり、頬の筋肉が緩くなっていく。彼は時間をかけて深い微笑みを作り、言った。

「そなたと過ごすこのような時が…愛おしくてたまらんのだ」






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