30.告白

 いつも、羽根のように脆い柔肌をこの太い手指で握り潰してしまわぬよう、最大限の注意を払って触れていた。彼女と同じだけの力しか込めず、だから彼はいつも最初は添えるだけ。
 しかし今は違っていた。何の遠慮も出来ず、膝を立て、力任せに彼女の温もりを自らに押し当てて、しがみつくように背を丸める。そうして、無我夢中で言葉を紡ぐ。

「嫌ってなどいるものか!そなたが何よりも愛おしい!嫌ってなど、嫌ってなど…!」
「!」
「私のこの手が罪にまみれていなければ、そなたにこのような辛い思いなどさせぬというのに!すまぬ…アンヘル、すまぬ…!」

 閉じ込めた彼女が身じろいだ。

「……それが、あなたの…気持ち…?」
「そうだとも!これだけは…絶対に、偽れぬっ…!」
「ほんと…?嘘じゃ…ない…?」
「あぁ…!」
「…う…うぅっ………うわああぁん!」

 夜半に響き渡る叫び。広い背を爪を立てんばかりに握りしめ、耐えていたもの全てを吐き出すように、涙を落とし、何度も何度も泣きじゃくる。
 ゴルベーザは無力な自身に激しい憤りをぶつけながら、ただただ彼女の肩や背中を抱きしめ、撫で、小さな頭に頬を擦りつけて、乱れる呼吸に喘いだ。

「アンヘル、すまぬ…すまぬ…!」
「っひ、ううぅ……っく…!」
「私は…そなたを悲しませることしか出来ぬ愚か者だ…すまぬ…!」
「…!」

 彼の謝罪に反応し、アンヘルは未だ咽びながらも抱擁から逃れるようもがき出した。ゴルベーザが力を緩めると、深くうつむいたまま懸命に目元を擦る。再び触れることが出来ずに空中に投げ出された両腕の中で、彼女は溢れ続ける雫を何とか止めようと、両目を真っ赤に腫らす。

「か、悲しくなんかっ、ないよ…」
「……」
「わたし、いっ、今は、悲しくない…!」
「アンヘル…」
「あなたの、本当の言葉…聞けた、からっ…!」

 光の戻った彼の双眸が見開く。まばたきと共に、頬にまた一筋が描かれていく。さらに荒く擦ろうとする手を握って制し、ゴルベーザはアンヘルを真っ直ぐに見据えた。無様に逃げ回っていた己自身とも、やっと同時に向き合って。

「アンヘル。そなたが好きだ。私にとってもそなたは特別な存在…同じ想いを抱いている」

 息を呑み、先程の彼と同じように丸くなった彼女の瞳には、一人の男が映っていた。浅黒い肌、彫りの深い造形、皺の刻まれた眉間、白銀の長い髪、そして、無二の紫の眼差し。
 その姿は紛れもない"あなた"。幻などではなかった。始めからこの中に居た。ようやくその真実を認め、男は彼に向かってわずかに微笑みかけていた。
 アンヘルがつられて笑みを零す。

「嬉、しい…!あなたの気持ち、やっと聞けた…!よかった…すごく、嬉しい…わたしのこと、好きって言ってくれて、ありがとう…!わたしもあなたが…!」

 唇に大きな指が触れる。口元はそのままに、ゴルベーザの眉毛が下がっていた。しかし、これは今までの拒絶ではないのだと、両肩に手の平を移動して、何度も撫で上げる。頬を淡く染めたまま、アンヘルは静かに腰を落としてじっと紫の瞳を覗き込んだ。

(…私は何て卑怯者だったのだろうか…。選ぼうとしていた道は、己の都合しかないものだった。彼女を苦しませ、こんなにも泣かせてから、ようやく愚かすぎる過ちだったと気づいた…)

 始めよう、懺悔を。

「……アンヘル。私はかつて、魂を闇に堕とし、非道に手を染めた」
「うん…でも…」
「そなたに過去を知られ、その眼差しが変わってしまうことを恐れていた。だからその前に消えてしまえば、そなたとの関係を保ち、美しい記憶に浸っていられると思っていた…」
「……」
「身勝手過ぎると、そなたを深く傷つけてしまったと、今なら理解出来る。アンヘル…本当にすまなかった…」

 ゴルベーザがこうべを垂れた。生まれる沈黙。小さく震える彼に、アンヘルが今度こそ腕を広げる。
 背筋を伸ばし、頭を包み、抱き寄せた。

「わたし、もうつらくないよ…。さっきまで泣いていたのは、あなたに嫌われてしまったことが悲しかったから。でも今はそうじゃないから、あなたに好きって言ってもらえて、とても幸せだよ。だから、ね…だから…」
「…あぁ…そうなのだ…。私が本当に恐れていたのは、この想いが他ならぬそなたに歪んで届くことだったのだ…。そなたはこの世でたった一人、"ゴルベーザ"から放たれた私を知ってくれている…。それは、何にも代え難い幸福だった…」
「うん…」

 ゴルベーザがゆっくりと時間をかけて身を起こす。この魂に巣くう闇を露わにするため。

「もう逃げぬ。アンヘル…私の罪を聞いてほしい。全てを話し、そして全てをそなたに委ねよう…。その時にもう一度、そなたの言葉を聞かせてくれぬか…」

 恐怖が晴れてなどいなかった。しかし、今の彼には立ち向かう勇気が、新たな覚悟が生まれていた。

(そなたの瞳に失望の色が浮かんでも、私はそれを受け入れよう。耐えられぬものなのかもしれぬ…だが、後悔も無い。虚像などではなく、全てを晒した私に対して、彼女が答えを出すのだ…これこそ、ずっと望んでいたことではないか…)

 固く握った拳を和らげようと、アンヘルがその手を取り上げる。ふ、と口の端が緩むのが分かった。
 息が詰まる恐怖心の中に、場違いに存在する一つの感情。
 期待、欲望。そのように感じたが、もっと温かいもののようにも思う。

(………そうか……これが…"信じる"ということなのか……)

 乱れていた鼓動が、不快なものでなくなった気がした。

*

「私は…辺境の小さな村で、父と母と暮らしていた。慎ましく、満ち足りた日々だった。しかし……母が弟を身籠もった時期から、私の環境は大きく変わっていった……」

 ゴルベーザはアンヘルに請われ、あぐらの形を作った腿の上に彼女を乗せ、そっと抱きとめながら告白を始めていた。気分は落ち着いていた。

「ある時…父はかつての教え子たちに刃を向けられ、命を落としてしまった」
「!」

 強張った背を大きく撫でる。

「無論、私も悲しんだが…母の嘆きはさらに深く、身重の体は蝕まれていった。そして母も、弟を産むと同時にこの世を去ってしまった…」
「……」
「幼い私は世界に絶望した。何故、父は裏切られなければならなかったのか。何故母も死ななければならなかったのか。遺された私はやがて"声"を聞いた…両親の命と引き替えに生まれてきた弟こそが、その絶望の源なのだと…」

 ゴルベーザが喉を詰まらせた。アンヘルが力いっぱい彼を抱きしめる。
 ひびの入った皮膚が再び剥がれ始め、彼はもはや人の形を保てなくなった気になっていた。醜く滴る毒の沼の中に、アンヘルがその小さな身体を埋めている。いつ、彼女の肌までこの毒に侵してしまうのだろうか。
 だが、この温もりがもうどうしようもなく気持ちいい。そうとしか考えられなくなっていく。

「"声"はいつまでも私にまとわりついた。浅はかな私はとうとう…奴を受け入れ…守るべき弟に憎しみを抱き……絶望を押しつけて、森に捨て置いたのだ…!」

 胸の中の彼女は力を込め続ける。

「私は"声"を導きと、正義と信じ、過ちを犯し続けた…!憎しみをもたらす世界を滅ぼそうと、人々を殺め、惑わし、苦しめた!私は……この星に住む全ての民の敵なのだ…」
「そんなことないよ!」

 彼女が初めて話を遮った。迷いの無い、曇りも無い二つの瞳が紫の双眸をただ一点捉える。

「わたし、あの島の中でずっと独りだったから、あなたに何もされてない」
「…!!」
「だから、あなたが全ての敵っていうのは違うよ。それに、わたしは今のあなたをちゃんと知ってる。今のあなたは、悪い人なんかじゃない…誰も憎んでなんかいないよ…」
「…だが…過去は変えられぬ…。アンヘル、私を軽蔑しただろう…?」

 ふるふると、首が動く。

「ううん、してない。"声"っていうのは、あなたのものではないんでしょう?大好きなお父さんもお母さんも死んでしまって、一緒に泣いてくれる人がいなくて…」
「……」
「あなたが"声"の言うことを聞いたのは、そうしないと独りぼっちで、生きていけなかったからでしょう…?」

 ゴルベーザの表情が歪む。降りてくる彼のため、アンヘルは再び両腕を伸ばした。

「大丈夫…わたしはあなたのこと、嫌いになったりしてないよ。わたし、気持ちは変わるものと変わらないものがあるって、ちゃんと知ってる。あなたが好きって気持ちは、たくさんたくさん考えて、それでやっと分かった一番大切なわたしの心なの…。変わったりしないよ…大丈夫だよ…」
「……アンヘル……」

 両腕は、おぞましい毒をものともせず、もっと奥へ。底で眠るようにゆらめく小さな小さな灯火を、ふわりと優しく包み込む。
 彼女は最初からこの光だけを見ていたのだ。初めて存在を認められ、灯火は輝くことを許される。

「あなたが好き…大好きなの…」
「アンヘル……う、うぅ……!」

 抱きしめられた頭を撫でられて、形容出来ない色の液体がぼたりと垂れた。その合間に白銀が映る。これこそが本物の彼。アンヘルがずっと見つめ続け、信じ続けた"あなた"がついに息を吹き返していく。

「あぁ…あ……すまぬ…!許してくれ…許して、くれ…あ、ああぁ…!」

 ゴルベーザが呻き、崩れ落ちた。底に輝く光が、濁ってこびりついた罪を温めて溶かす。止まらない涙が、彼女の小さな手がそれを洗い流し、彼すら否定し続けていた本当の姿を優しく導き出していく。
 彼は声が枯れるまで、アンヘルへ、そしてここにはいない誰かへと謝り続けた。その度に彼女はうなずき、頬を寄せて存在を示す。
 赦されることはない。望んでもいけない。虚空に向かって償い続け、この何も掴めない常闇に疑問など持ってはいけない。そう生きてきた。
 しかし、今、彼は闇の中に光を見つけ、自らもそれを抱いていると教えられた。光は確かに応えてくれた。罪の告白を聞き入れ、どこにも届かないはずの心を受け止めてくれた。

(私も応えたい…!生きて、彼女を幸せにしたい…!!)

 願いが溢れた。






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