29.選択

 恋慕を打ち明けた相手の瞳は虚空に投げ出されていた。それでも、これまでのように彼方から戻ってきてくれることを、再び優しい眼差しを向けてくれることを信じて、アンヘルは続けて言った。

「わたしね…あなたのことを考えると、体の奥から音が聞こえてくるって気づいたの。これは心臓の音…わたしが生きている証。あなたに連れ出してもらって、わたし、"生きる"ってどういうことか分かったんだよ」
「……」
「あなたのそばで生きたい。たくさん話して、たくさん笑って、たくさん、触ってほしい。わたしにとってのあなたは、お父さんでも、お店の人でも、野盗でも、罪人でもないの。あなたはたった一人の、わたしの大好きな人…」

 もう一度彼を見上げる。紫の両目が確かに見つめていた。
 ぎゅう、と胸は強く締めつけられる。この甘い痛みが恋だと知るまでどれだけ思考を重ね、あの孤島で読み続けた本の記憶を辿り、しかしまるで蓄えられていなかった知識に愕然としただろう。
 それでも彼女は気づき、理解した。どこかの町で恋人と思われる二人が幸せそうに抱き合う姿を見かけ、あれこそが彼に望む関係だったのだと。欲した答えは外の世界にあった。同時に、孤独な日々がどれだけ哀しいものであったかを自覚した。
 膝を進め、距離を全て埋めて、アンヘルが彼の投げ出された両手を握る。

「お願い…これからもあなたと一緒にいたいの………ゴルベーザ」
「…!!」

 どん。
 加減も出来ずに突き飛ばしていた。アンヘルが衝撃をまともに受け、どさりと後頭部を打つ。
 彼は拒んだ。その名で呼ばれることを。
 彼女は拒まれた。想いを、熱を。
 二人の頭上で頼りなくまたたいていた光がふっと闇に溶けた。短い間隔で痛み出す脳。世界が滲んだ。

(……やっぱり……そうだったんだ…)

 両頬に生ぬるい水が伝わっていく。景色が消えていく。
 疑問が、恐れていた疑いが、確信に変わってしまう。
 長い沈黙の後、あまりにかすかな声が冷たい空間に響いていた。

「………あなたは……やっぱり……わたしのこと…嫌いだったんだね…」
「なっ……何、を…!?」

 我に返って寄ろうとしていた彼の動きが封じられる。絡みつく茨が阻んだのかもしれない。
 内に仕舞い込み、必死に忘れようとしていたはずの形容し難い暗い何かが溢れていく。しかし、一度楔が抜けてしまえば、もうそれを元に戻すことは出来なかった。

「本当は…何にも出来ないわたしのこと……ずっと、いらないって思ってたんだね…」
「そ、それは…!」
「でもあなたは…優しいから…我慢して、嘘ついて…わたしが一番悪いのに…あなたが悪い人になって…。そうでしょう…そうなんでしょう!?」

 素早く身を起こし、涙に濡れた瞳を焦燥しきった彼へと見定め、叫ぶ。

「全部、全部嘘なんでしょう!?本当はわたしのこと嫌いだから離れたいんでしょう!?だったら嫌いってはっきり言って!罪とか…資格とか…あなたの言葉、全部、あなたの気持ちじゃないんだもの!そんなこといくら言われたって分からないよ!」

 何度もしゃくり上げ、とうとう彼女は両手で顔を覆って肩を震わせた。

「もう…嘘、つくのは…やめて…わたしの心配なんか、しないで…っ」
「っ…」
「ごめんなさい…ずっとずっとっ…迷惑、かけて、ごめんなさいっ…!たくさん…い、嫌な思い、させて…っう…ごめんなさい…!」
(何を…彼女は一体…何を…!?)
「早く、本当の、こと…っ…話して……そうしたら、わ、わたし、ちゃんとっ、聞くからぁ…!」
(何を言って…!?)

 ひく、とゴルベーザの喉が動く。内臓が不快にうねり出している。
 この痛みは、絶望は、散々逃げ出したいともがき続けたあの苦しみ。魂一つを隔てた夢の中にだけ留められていたはずの幻想が、世界を浸食し始めていく。

(違う…違うっ…そうではない…!)

 何故彼女は泣いている?
 何にも勝り、何よりも強く胸に渦巻くこの想いが、ほんの少し腕を伸ばすだけで触れられるはずの彼女に届いていない。

(い、嫌だ…!)

 あぁ、これこそが正真の地獄ではないか。彼はそこに足を踏み入れて、それまでの葛藤はこの苦痛と比べることすら馬鹿らしく、独りよがりなものに過ぎなかったとようやく思い知った。
 罪を犯し続けた己が唯一誇れる感情。それが、他ならぬ彼女自身に否定されている。

(嫌だ…嫌だ…っ!)

 そして彼は選ぶ。真に耐え難い地獄が何なのかを。手に持っていた刃を振り下ろし、過ちを重ねて、今さら。
 それでも。

「アンヘル…!」

 両腕を広げ、一言名を呼んで、力いっぱいに抱きしめた。






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