28.懇願

「あ、あのね、わたし…やっと分かったの。えっと、本当はずっと前に分かってたはずなんだけど、で、でも…そのことに気づいたのはもっと後で…」

 アンヘルが一旦口を閉じ、数回深呼吸を繰り返す。

「悪い人は倒さなきゃいけないっていうわたしの考え方、間違ってた。あの時すぐに気づけなくてごめんなさい…今までちゃんと謝れなくてごめんなさい…」

 彼女の瞳から涙が押し流される様を、ゴルベーザはただただ眺め続ける。

「わたし…あなたに出会って、死にたいって思わなくなった。独りぼっちの頃とは、見えるものも、思うことも、全部、全然違うの。でもこれって、わたしだけじゃなくて、みんなそうなんだよね?」
「!」
「わたし、今のあなたのこと、悪い人だなんてちっとも思わないよ。今のあなたは優しくて、あたたかくて、わたしにたくさんのこと、教えてくれる」
「……」
「あなたが悪い人だった時に死んでいれば、わたしはあなたに会えなかった。そんなの嫌だよ…!でも、あの時のわたし、そんな嫌なこと、考えてた…ごめんなさい…!」

 くらりと、かすかな眩暈。
 何か、滞っていた血液が再び流れ出して、ようやく脳まで行き渡ったような、そういう感覚。言葉で表すならば、そう、これは"報われる"ということ。指先がじんと痺れ、ゴルベーザを導く。眼前の小さな頭にそっと触れていた。

「んっ…」

 待ちわびた温もりにアンヘルが震えた。続きをせがみ、必死に自ら動いて潤んだ瞳をゴルベーザに向ける。これまで何度も何度も彼の覚悟を砕いてきた無垢な眼差し。底にきつく封じたはずの感情が、やはりいとも容易く扉を蹴破って喉を引きつらせていた。

「…理解してくれたのなら、よい」
「!じ、じゃあ…許してくれるの…?」
「許すも何も、私は始めから怒ってなどおらぬ」
「う、うん…ありがとう…!」
「……」

 彼の指が離れていく。名残惜しそうに、彼女はしゅんとあるはずもない頭部の耳を垂らす。
 一つ呼吸する。もう、決めたことだった。

「私の話だが………次の町で、そなたを慈善施設に預ける」
「……え?」
「そこには、そなたと同じく親を喪った者たちがいる」
「えっ…え?な、何のこと…?」
「そなたもこれからはそこで暮らすのだ」
「!?」

 突然の宣言。すんなり話が通るなどとは思っていない。それどころか、本当は説得させる算段も組み上がっていない。だが、もう共にあってはならない。その一言がゴルベーザを縛りつけ、彼の意識をふらふらと揺らしていた。

「や…い、嫌だよ…!そんなところ行きたくないよ…わたし、あなたと一緒にいる…!」
「ならぬ。私の役目は終わった。だがそなたの学びは新たな場所で続いていく。それだけのことだ」
「終わってなんかないよ…!わたしはあなたからもっといろんなこと、教えてもらいたい!お願い、一緒につれていって…置いていかないで…!」
「…っ」

 アンヘルが膝を立て、身を乗り出した。縋る手を押しやる。彼女は体勢を崩し、両手を床へついた。そのまま固まってしまう。ゴルベーザは目を逸らす。

「……私は罪人だ」
「……」
「そのような者と共にいることが、そもそも間違いだったのだ。そなたは世界を知り、私以外の人も知った。私から離れて生きていくことが、そなたにとって最良なのだ…」
「違うよ!」

 アンヘルが勢いよく顔を上げた。彼女は初めてゴルベーザに抗う。これも、彼が教えてくれたこと。

「あなたと一緒にいられないことが一番になるはずない!わたしのことだもの…わたしが一番分かってる…!あなたは"自分で考えて答えを出しなさい"って言った。これが、その答えだよ。本に書いてあるんじゃない、あなたの言う通りでもない…わたしが考えて出した、わたしの気持ちなの…!」

 ぐ、とゴルベーザが言葉に詰まった。
 何か言え、何か、諦めさせる台詞を。

「……私の旅は…これからさらに危険を増す…そなたを巻き込めぬ…」
「わ、わたし、もっと頑張って強くなるよ…!黒魔法も、白魔法も、もっともっと使いこなしてみせるから…!」
「そなたの力では足りぬのだ!」

 上がった大声に、アンヘルがびくんと肩を揺らす。夜半の静寂が戻ってくる。きんと高い耳鳴りが起きてしまう程の、冷たく尖った沈黙。
 そこへ、ぱた、とかすかな音が鳴った。彼女の瞳から再び溢れた水滴が、固い床の布地に弾けた音だった。

「……わたし…あなたの役に立ててなかった…?」
「っ、それは…」
「足手まといだった…?ずっと、邪魔だと思ってた…?」
「そうではない…!」

 建前と本音がめちゃくちゃに入り乱れ、ゴルベーザの唇から独りでに放たれていた。もう、何を口走っているのか理解が追いつかない。脳が働かない。茨の蔦ががんじがらめに巻きついて、あらゆる場所を刺してくる。

「そなたの存在にどれだけ私は救われたか…!計ることなど出来ぬ程に…!」
「…いやじゃ、なかった…?」
「無論だとも…!」
「じゃあ、どうして…?どうして一緒にいちゃいけないの?あなたが嫌じゃなくて、わたしも嫌じゃないのに、あとは何がだめなの?」
「それは……罪を犯した者として、私に安らぎを得る資格などあってはならぬのだ…」
「じゃあ、どうすれば罪はなくなるの?今のあなたはこんなに優しいのに、どうしていつまでも苦しまなきゃいけないの?そんなのおかしいよ…!」
「それが…償いなのだ…」
「それはいつ終わるの?早く終わるように、わたしも手伝うから…わたし、役立たずかもしれないけど、でも、でも、あなたのために頑張りたいの…!」

 アンヘルの懇願によって乱された呼吸を整えようと身悶えし、茨に刺されていた皮膚が一枚、鱗の如くぼろりと落ちていった。正体を包み隠していた薄皮は、愛しい少女の眩しすぎる眼差しに耐えきれず、とうとうひびが入る。心の中でひ、と悲鳴が上がった。

「お願い…もう独りぼっちに戻るのは嫌なの…怖いよ…」
「…独りなどではない。同じ年頃の友人が出来るのだ」
「ううん、違う。あなたがいてくれなかったら、わたしはどこにいても寂しくて、悲しいの。だって、あなたはわたしの特別な人…」
「…!」
「あなたが好き。好きだから、ずっと一緒にいたい…!」

 ぼろぼろと"あなた"が剥がれていく。その奥からおぞましい色の毒にまみれた醜いものがこちらを向いた。
 心臓が激しく脈を打ち続けている。この衝動を何と名付ければいい?分からない。ただ、焦がされる。己の存在のどこかの部分がじりじりと炎にくべられ、焦がされている。
 この火は何だ?皮膚がまた落ちる。いつから燃えている?何がどうなっている?今、何をしている?どうしたい?

(…わた、し、は……)

 もう全部燃え尽きて、消え失せてしまえば楽になれるのに。






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