1.亡霊

 振動が止んだ。無事着陸したようだ。
 "飛翔のクリスタル"の前で静かに佇んでいた男は、腕組みを解き、一度大きく呼吸をして、何かを決意した表情で踵を返した。
 二度と踏むことはないと思い続けた故郷の地。おめおめ戻ってきてしまったと、そのようにも考える。しかし、行かなければならなかった。行って、この目で確かめなければならない。この青き星が、果たして旅立ったあの日と変わらず平穏であるか、あるいは否か。
 男はそういう状況だった。
 搭乗口横の装置に手をかけ、扉を開いた。昇降用の階段が程なく現れる。一歩進むと、乾いた土の匂いが伝わった。男の胸奥が無意識に締められる。
 しかしすぐに異変を察し、彼は階段を駆けた。

「…ここは、一体…!?」

 星の海を渡る船、魔導船。それが降り立ったこの場所は、全く見覚えのない木々の合間だった。

(着陸地はミシディアの平野ではなかったのか…!?)

 急いで操縦盤の元へ戻り、内蔵された位置情報機能を作動させた。ミシディアから遠く離れた大陸の先端部が赤く光る。しかし、よく見れば印は海の上を指していた。地図にも載らない小さな孤島、ということなのだろうか。
 男が改めて船から降り、周囲を確認する。船は完璧と言える程、この土地に美しく収まっていた。上を見ればぽっかりと森が口を開け、地面は丁度この一帯だけ草が避けている。格納庫という他にない。男はそう得心し、歩き出した。
 人目に触れず青き星に戻ったことは、彼にとって好都合であった。

(セシル…お前は今も、息災か…?)

 男の名はゴルベーザといった。

*

 森を歩き進めるにつれ、彼の中に生まれた違和感は周りを警戒させる程に膨れ上がっていた。明らかに人為的な魔力の気配がある。

(おそらくこの森は父さんの拠点の一つだったのだろう。そう考えれば満ちる魔力も納得出来る。しかし…)

 ぴりぴりと肌を刺す、禍々しい何かを連想させる攻撃的なそれ。父がこのようなものを遺すはずがないと、ゴルベーザの直感は彼に告げた。
 と。

「!」
(今、何かに視られた)

 視線を感じた方向へ反射的に駆け出す。身を潜めることが不可能であれば、先手を打つのが得策だ。
 拓けた場所で立ち止まり、鋭い目を四方へやる。まもなく、気配が一気に濃くなった。

(来る…!)

 ゴルベーザの眼前の景色が激しく揺らめき、ぼっと青白い炎が現れた。炎は燃え盛りながら徐々に形を変えていく。
 亡霊、と呼ばれる類のものだった。炎は人を模した姿となり、顔らしき部分はかろうじて口が付いていることが見えた。その口が、低く湿った声を発し始めた。

「………何者だ……去れ、今すぐ去れ……」
「…望んでここに来た訳ではない。道があればすぐに行く」
「去れ…ここは通さん……何故見つけた…何故見つけた…」
「……」

 ゴルベーザが注意深く、一歩後ろに下がる。

「去れ…消えろ…!」

 亡霊の指先の炎が突如肥大し、ゴルベーザへ襲いかかった。彼は素早く反応し、冷撃を叩き込む。刺激するつもりはなかったが、このまま戦闘に入ることを覚悟した。
 しかし、亡霊は動きを止め、眼球と思われる部位を初めて明確にゴルベーザへ向けた。

「この波動…………クルー、ヤ……?」
「!!父を知っているのか!?」

 ゴルベーザが動揺して言葉を返す。次の瞬間、亡霊の感情の増幅に呼応するように、炎の身体の勢いが恐ろしく増した。

「今更何の用だ!あぁそうか、"アンヘル"を奪いに来たのだな!?"アンヘル"は渡さん!何にも奪わせん!」

 亡霊はそれ以上は理解出来ない言葉を喚き散らし、身体から離れた炎が次々にゴルベーザを狙う。彼は冷静に一つずつ撃ち落としていたが、炎が木にぶつかっても燃え移らないことに気づいてからは防御に回り、この正体不明の魂を鎮める方法を探り始めた。

「私はクルーヤではない。私はそなたから何も奪うつもりはない。どうか話を聞いてくれ…!」
「消えろ!何人たりとも触れることは許さん…"アンヘル"は私のものだ!永遠に私だけのものだ!」
「くっ…」

 彼にこちらの言葉は届いていないようだった。ゴルベーザは唇を閉ざし、一旦この場から離れようと体勢を変える。
 そして、亡霊に意識を集中しすぎていたのか、父の名を出されたことに相当動じてしまったのか、気づくことがないまま走り出し、それに触れてしまった。
 腕先の表面に突如電撃が走る。次いで奥側への衝撃。思わずよろめき足を止める。真っ先に痛みを感じた右腕は、雷撃を食らった時のように、皮膚が軽く焦げていた。

(これは!)

 目の前の空間を開いた瞳で見つめる。注意を向ければすぐに知ることが出来た。ここに結界が張り巡らされている。ゴルベーザは舌打ちした。

(閉じ込められたのか…!?)

 背後に亡霊が迫る。尚も何か喚いている。感情が昂ぶりすぎているのだろう。炎はもう人の形を取らず、波のように広がってゴルベーザを飲み込もうと押し寄せる。
 彼は再度舌打ちし、左手を大きく掲げて唱えた。

「ブリザガ!」

 波から触手が何本も伸びゴルベーザに到達しようとしていたが、その寸前、現れた巨大な氷柱が本体を抉っていた。炎が悲鳴を上げる。触手が蒸発するように消滅し、本体が勢いを失って小さくなっていく。

「…お、おぉ……おのれ…」
「……」
「アンヘル…アンヘル……私の可愛い娘…」
(!)

 炎が尽きると共に声もか細くなっていき、しかし亡霊は最期までその単語を囁き続け、やがてふつりと切れた。森に静寂が戻っていく。

(…滅してしまった)

 ゴルベーザが今更ながら己の判断を後悔する。どうあってもあの亡霊から情報を得ることは不可能だった。しかし、それでもあれはきっと父を知る、もう唯一と言っていい存在だったのだ。
 彼は自らを慰めるように数度首を振り、先程阻まれた結界の状況を確認した。予想通り、亡霊の消失に伴い解放されたようだ。見えない壁で隔てられていた先は、森の中心部へと続いていた。

(この先に…父さんの手がかりがあるのだろうか。…そして、娘とは…)

 思考を始める前から足は動いていた。ゴルベーザの鼓動が静かに、しかし力強く脈を打つ。
 きっと、魔導船は自ら降り立つ地を選択したのだ。月の民の血を引く彼に遺された道しるべを教えるために。
 ゴルベーザの脳裏に、そのような妄言がよぎった。






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