25.理解

 翌日の夜、アンヘルは野営地から離れ一人木陰に座り込んでいた。これまでは少しでも立ち上がる素振りを見せればゴルベーザが視線を寄越して行動を見守っていたが、今日の彼は背を向けずっと考え事にふけり、彼女が火の前からいなくなったことに全く気づいていないようだった。
 ようやく暗闇に目が慣れ、体の線がおぼろげに眼前に浮かぶ。月の光は細く、わずかに風が吹き続けていた。
 アンヘルが大きくため息をつき、真後ろの幹に体重をかけ星空を仰いだ。

(今日もほとんど話してくれなかった…。わたしのせい、なんだよね…)

 数日前、野盗に襲われた状況を思い起こす。彼女が罠に陥り、それが原因でゴルベーザは矢傷と毒を受けた。彼を殺すと言われ、一番の宝物である大切なブレスレットを奪われて、生まれて初めて我を忘れる怒りに支配された。その直後は無我夢中だったこともありもうはっきりと覚えていないが、ただただ彼を助けたい一心だった。
 懐を探り、小さな巾着袋の中身を手の平に取り出した。赤い石が二つ、透明の石が一つ。あの時何とか見つけることが出来たブレスレットの一部だった。運悪く岩に向かって落下し石の半数は砕け、散らばった残りのうち無傷だったのはこの三つのみ。アンヘルはそれらを両手で強く握りしめる。

(わたし、あの時…あの人を傷つけた野盗は死んでもいいって思ってた…。だって、盗賊は悪い人…生きるために私たちを襲ったんじゃないもの。他の人から盗まなくても、お金や食べ物を手に入れる方法はあるんだもの…!)

 そこで背筋に寒気が走り、丸まって瞼を下ろす。

(でも、あの人は…あの人も野盗と同じだって…もっとひどいことしたことがあるって…そんなの、信じられない…!)

 悪事を働いた者は、世界から消えるべきだと思っていた。かつて本の中に出てきた彼らは物語の主人公に残らず退治され、結果幸せな結末を迎えていたから。
 しかし、ゴルベーザもそうされるべき人間だったと告げられた時、彼が目の前から居なくなってしまうと想像が膨らみ、彼女の価値観は恐怖によって崩された。
 もう一度ブレスレットの残骸を見つめてから、巾着袋の中に戻して元通り首から提げた。

(あの人はわたしに嘘をついたの?うぅん、あの人はそんなこと絶対にしない…。でも、でもたくさん殺したって…わたしにはあんなに優しくしてくれたのに…昔と今で、全然違う人だってこと?そんなことって…あるの…?)

 思考の海に溺れていく。底の無い深みへ、少しずつゆっくりと。必死に見上げる水面は仄かに明るく、そこへ至りたいと願いを湧き起こす。しかし、伸ばした腕には形容し難い様々な色が混じった糸が絡みついていた。そう、今の彼女は澱。だから沈む。どこまでも。
 進むにつれ、彼女はごぼりと泡を吐く。泡は記憶、声だった。弾ける度に声が再生される。自分のものだったり、彼のものだったり、すぐに顔を思い出せない誰かのものだった。

−わたしを殺してほしいの−
−駄目だ。そのようなことを軽々しく口にしてはならぬ…!−
−そうなの?−
(……うん…今なら、あなたの言ったこと、ちゃんと分かるよ…)

 …今なら?
 アンヘルの瞳に灯る景色がはっと変わる。

−お父さんは…死んじゃったんだよね。もう、会えないんだよね。わたし、どうして……今まで…何にも思わなかったんだろう…−
(それは……今のわたしは、独りぼっちだった頃と…違うから……)

−…もう死にたいなんて言わないから…手、つないでほしい−
−あぁ、いいとも−
(わたしは…変わったから…!)

 アンヘルの身体中に絡む糸。もがいてももがいても振りほどくことは出来ず、途方に暮れていた彼女がついにその始まりを見つける。
 そこに触れた瞬間、彼の言葉が海の中に響き渡った。

−心を入れ替え、二度と悪事に手を染めなくなるやもしれぬ−
(そうだよ……人の気持ちは変わるんだ!わたし、あの人に会うまでずっと死にたいって思ってたけど、今はちっとも思わないし、ずっと生きていたいもの!あの人もきっと同じで、あの言葉はあの人のことを言っていたんだ!)

 あれだけ頑なに拒まれていた糸が嘘のようにするすると解けていく。頭上で一つの塊となり、それはいきなり輝き出し、海の中を残らず照らしていった。

(もし、わたしが昔の気持ちのまま死んでいたら、あの人に会えなかった…外の世界がこんなに広くてきれいだって、知ることが出来なかった…!そんなの、いや…あぁ、わたしだけじゃない…みんな、そうなんだ…!)

 アンヘルはとうとう理解した。人は、物語の登場人物のように生まれてから死ぬまでの全てが決まってなどいないということを。
 本の中の悪人とゴルベーザは確かに同じ人間だが、決定的に違いがある。彼は生きている。明日、彼が何を食べ、どこへ行き、どんな言葉を紡ぐのか、そして心がどう動くかは誰にも分からない。明日まで生きないと、分からないのだ。
 アンヘルが両目を開く。輝く糸がこの世界の闇をも払ってくれると信じて。
 しかし、所詮それはただの妄想。光など始めから無い。広がるのは全ての輪郭を取り込んだ黒一色。アンヘルは呆然とそれを眺め、吹き抜ける風の冷たさを思い出した。

「……わたし……どうしてもっと早く…気づけなかったんだろう…」

 か細い声が闇に溶ける。

「そう…わたし、あの夕焼けの日…今は死にたくないって、独りでいた頃と気持ちが変わったって、もう分かってたのに…どうして他の人も一緒だって、そこまで考えられなかったの…?」

 首から上が熱い。鼻の奥が痛い。涙がぼろぼろと落ちていた。

「あの時悪い人は死んでもいいなんて言ったから、あの人はわたしを嫌いになったんだ…!」

 生まれて初めて味わう後悔の念。新たな成長。しかし、それは痛みを伴う哀しいものだった。

「…っ、いやだよぉ…」

 ぐすぐすと鼻をすすりながら、アンヘルが強さを増す風に髪をかき乱される。手の甲で赤くなった瞳を何度か擦り、髪を押さえながらゆっくり顔を上げる。
 そこで気づいた。風の音に隠れて何かの気配が側まで迫っていたことに。

「え……きゃあ!」

 ことさら黒い塊が飛びかかり、彼女は咄嗟に横へと転がるように避けた。炎を生み出し前方へかざす。
 そこには数匹の大型のコウモリ。火に怯んでいるものの、一定の距離を保って彼女を囲い込んでいた。そのさらに奥に巨大な影が映った。ゆらゆらと近づいてくる。
 影は女性型の魔物だった。眷属であろうコウモリと同じ羽を持ち、アンヘルを吟味するような眼差しで見下ろしている。彼女は手元の炎をより掲げたが、相手は腰が抜けてしまったことを見抜いているらしい。弱点を前にしても一切動揺せず、それどころか自身をその弱点に照らし出して恐怖心を煽っているようだった。

「こ、来ないで…!」

 にい、と紫色の唇が吊り上がる。獲物を定め、勝ち誇った表情。

(た、戦わなきゃ…!でも、でもっ…殺したら、また嫌われる…!?)

 魔物が一歩踏み出す。アンヘルは動けなかった。
 その時、二人の間を突然真っ赤な線が走り抜け、その先に居たコウモリに突き刺さって一瞬で燃え盛った。

「!?」
「アンヘル!無事か!?」

 次々にコウモリたちが爆発する。魔物は眷属の残骸を目にして一変青ざめ、本来の獣の姿に戻って一目散に逃げていった。
 入れ替わりでゴルベーザが現れ、駆け寄る。アンヘルの前で膝を折り、押し倒さんばかりの勢いで彼女の両肩を掴みにかかった。

「怪我は無いか!?」

 呆気に取られたアンヘルが何とかうなずき返す。そこでやっと彼は全身から力を抜き、がくりと深くうなだれた。

「良かった…肝が冷えたぞ…」

 絞り出した低い声が耳から内側へ流れ込み、彼女は今まで胸に渦巻いていた悲しみがそれに溶けて消えていくのをはっきりと感じていた。心臓を中心に生まれた熱が冷たくなった体を震わせる。ゴルベーザがそれに気づき、素早く離れた。

「っ、すまぬ…!」

 反応も無く、ただ大きな瞳をさらに開いて見つめてくるアンヘルに後ろめたさを覚え、彼は再びうつむいた。そのすぐ後、重なる温もり。小さな手が行き場をなくしたそれを握っていた。

「助けてくれてありがとう…!わたし、今、すごく嬉しい。えっと、うまく言えないけど…でも、あなただから、すごく嬉しいの…!」
(…!)

 これまで何度も向けられた笑顔。これまで通り、心の中に光が差す。
 …その相手は偽者だったのに?
 光が罪という雲に覆われ、一度は照らされたはずの世界から色が失われていく。しかしゴルベーザは温もりを振り払うことも出来ず、ひたすら沈黙を貫くだけだった。






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