24.嫌悪

 その日からゴルベーザの態度は一変した。
 身に纏う空気は重量を感じるものとなり、必要最低限の会話しか交わさなくなった。彫りの深い、いつも影が入る眉間はそれ以外の理由でさらに闇を増し、そして何より目線を合わせてくれることが無くなってしまった。最初こそアンヘルは彼の気を紛らわせようと、少しでも美しいと思う情景に出会う度口に出して同意を求めたが、彼の態度が機嫌の問題ではないと気づいてからは、うつむいた顔を上げる回数も減っていった。
 短く休憩を告げた後、ゴルベーザはアンヘルの視界から消えた。世界から身を隠すように巨大な背を小さく丸め、白銀の髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら、もう何度目になるか分からない咎めの言葉を自らに刺し続けていた。

(私は何て愚かだったのだ…!素性を明かさず彼女を騙し続け、それで救われた気になっていた…!)

 アンヘルを島の外に連れ出し、世界を教え、導いた。言動が好意や信頼といった形で返ってくることに喜びを覚え、これまでの人生で抱き重ねた後悔も、これから果たすべき贖罪も注ぎ込んだ。そして彼女は望む通りに応えてくれた。
 しかし、その全ては偽りの土台に築き上げられたものだった。閉ざされた檻の中で生きてきた彼女は目の前の虫の毒を知らないまま"ゴルベーザ"を慕った。まだ毒に侵されていない最後の良心が裏側から呼びかけていたというのに、それを認めず、彼女の目に映る"あなた"を本物だと演じていた。

(何て浅ましく…身勝手な!私は彼女を己の欲望のために利用していたのだ!他者を意のままに弄ぶ行為を繰り返してきたのは…私の本質だったというのか…!?あぁ、アンヘル…!)

 生きる希望と縋りついた彼女の笑顔も、感謝の言葉も、両手に宿る温もりも、偽りの世界で手に入れた幻に過ぎなかった。彼はそう責め、その度に後ろに迫りながらも目を背け続けていた漆黒の底へと落ちていく。
 落ちるのは、そう振る舞わずとも積み上がってしまった裏切りの上に立っているため。彼は自らそれを壊し、新たな後悔を生みながら深淵に呑まれる。

(私が人殺しだと知った時の彼女の瞳が忘れられぬ…!本来受けるべきはあの眼差し…だが私は…心地よさにずっと溺れて…その資格など始めから無かったというのに…!)

 頭を抱え、止まない耳鳴りを聞き、彼は耐え難い痛みに晒されていた。何を舞い上がっていたのだろうか。"ゴルベーザ"が赦されるなど、そもそも死を以てしても叶わないことぐらい受け入れていたはずなのに。
 と、背後から気配が近づくのを感じ取り、彼は我に返って素早く顔を上げた。

「…あ、の」
「……」
「そろそろ、出発する…?」
「…そうだな」

 痛みは出さず、ただアンヘルの知らない頃の表情に戻って、ゴルベーザは短く返事した。
 彼女が視線を泳がせながらももう少し歩み寄った。

「あのね…お願いがあるの」
「……」
「あ、あの、その……手、つないでほしい」

 ゴルベーザの瞳が動く。勇気を振り絞って彼を見上げる彼女と目が合った。しかし、その時間はわずかなものだった。

「…駄目だ」
「えっ…!?ど、どうして…!?」
「必要ないだろう」
「ひ、必要あるよ!わたしがつないでほしいって思うんだもの…ねぇ、だめ?」
「……私より、そなたの手を取るに相応しい者がじき現れるだろう。私はそれまでの代わりにすぎぬ」
「!!」

 あまりの衝撃に、アンヘルはよろりとふらついていた。明確な、そして理不尽としか表現出来ない拒絶。放ったゴルベーザ自身にも新たな痛みが生まれる程の、言い訳じみた中途半端な突き放し。それは確実に彼女の透き通った心に傷をつけた。

「…そんなことない……そうじゃないのに…」
「っ…」

 涙声の呟きにいたたまれなくなり、彼は彼女の横を通り抜けていた。まとめられた荷物を持ち、振り返ることも出来ないまま歩き出す。アンヘルが地を蹴る音が聞こえ、直後に外套にぐんと力がかかった。

「待って、ごめんなさい、わがまま言わないから、置いていかないで…!」
(……あぁ…)

 彼女が頼ることが出来る人間は、世界で唯一ゴルベーザだけだ。そんな彼女のために自分も生きようと、つい昨日までは思っていた。しかし。

(他でもない私が…その状態になるよう仕向けていたのだな…)

 違う、と頭の中で声が上がった。しかしそれは満たされる闇に簡単に覆われ沈んでしまう。
 黙り込んだままこちらを振り向いてくれないゴルベーザの後頭部をじっと見上げながら、アンヘルはその存在を必死に示そうと、いつまでも彼の外套を握りしめていた。






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