23.亀裂

「あっ…」

 うずくまったゴルベーザを見て、アンヘルは何とか立ち上がろうと数回踏ん張りやっとの思いで彼の元へ向かった。解毒と治癒魔法を続けて唱え、とうとう堰を切ったように声を上げて泣き出してしまう。緩慢な動きで顔を上げた彼の瞳にいくらか生気が戻る。だが。

「そなたも……そなたも怪我を負っているではないか…」
「っく、ううぅ、っく…」
「あぁ…早く治療せねば…。ケアル、ケアルを……あぁ違う、そうだ、薬だ…」
「…?」
「早く、手遅れになる前に…!」

 うわごとのように囁き続け、ゴルベーザは野盗に使ったものと同じポーションを出した。アンヘルは戸惑うが、背に回った腕に引き寄せられ、有無を言わさず中の液体を流し入れられる。何口か飲んでから、両手で瓶の入り口を塞ぐようにして残りを止めた。

「わ、わたしはもう大丈夫だよ…!あとはあなたが飲んで…」
「駄目だ、助からなくなる…!」
「けが、もう治った…んっ……っけほっ!けほっ…うぅ…」

 無理矢理薬を飲まされて、すでに回復しようのない身体が拒否して咽せ込んだ。零れた液体が唇や胸回りに落ち、淡い光を発しながら染み込むように消えていく。アンヘルはゴルベーザの悲壮な表情をしばらく見上げ、察したのか諦めたのか、瞳を閉じ、静かに呟いた。

「ちゃんと飲むから…ゆっくり…」

 一口ずつ時間をかけて何とか腹に収め、効き過ぎた薬の副作用で朦朧と揺れる意識の中、彼女は気遣いの薄い笑みをそっと浮かべた。
 その微笑みを通り越し、遥か遠くに存在する何かを探るようなゴルベーザの眼差し。隣に立ち続けた旅の中で気づき、胸がざわめく感覚を覚えたそれ。彼の双眸が一度まばたきし、彼方から戻ってくる。ざわめきが静まり、彼女はほうと安堵の息をはいた。

「けが、全部治ったよ。ありがとう」
「……」
「ね、もう痛くないよ…だから、心配しないで」

 彼女を地面に解放し、ゴルベーザは眉間に皺を寄せたまま黙っていた。頭を撫でようとしていた手はもっと大きな抑制の感情に縛られ、空中で止まっていた。そして最後まで触れることがないまま戻っていった。

「…話がある」
「え…?」
「先程の続きだ。何故、あの時風の魔法で止めなかった」
「……だ、だって…悪いことしたら…人間を襲ったら……倒さなきゃ…」
「それは魔物のことだろう。人は対話が出来る…心を入れ替え、二度と悪事に手を染めなくなるやもしれぬ。その可能性を一方的に潰すのは褒められた行為ではない…」
「そうなの?そんなことってあるの?」
「無いとは…言い切れぬ」
「…で、でも…わたし、怖かった…。あなたが血を流して動かなくなって…死んじゃうって言われて、あ、頭の中が真っ白になって…!ごめんなさい…わたし、どうすればよかったの…!?」

 掠れた声のアンヘルが両手を胸の前で握り締めながらゴルベーザに迫った。無我夢中の抵抗を咎めるのは、本来は酷なことなのだろう。しかし、その咄嗟の行動の根底にある思想と呼べるもの。それだけは、例え計り知れない痛みを伴っても、正してやらなければならない。
 痛みとは、罰だ。

「…そなたは、悪人は死を以て償うべきだと考えるか?」
「……」
「悪人をわざわざ助ける必要はないと思うか?」
「……」

 明確に反論出来ない沈黙は肯定。
 全てから逃げ続けていたゴルベーザに、ついに裁きの刃が振り下ろされる。
 そして、それを手に持つのは他ならぬ彼自身。

「では、まず真っ先に私がそなたに殺されねばならぬ」
「えっ!?」
「私はそなたの思うような善人などではない…それこそ、あの野盗とは比べものにならぬ非道を重ねてきた」
「ど…どういう、こと…?」

 アンヘルが限界まで目を見開いて、今の告白は受け入れられるものではないと、何度も力なく首を振った。
 冷たい脈拍がゴルベーザの身体中に響き、指の先の感覚が無くなっていく。

(…そう、だ…私は……私はこれまでずっと…彼女を欺いていたのだった…)

 口に出して思い知った。償いを果たすつもりでいながら、本当はなお罪を犯し続けていただけだったのだと。

「そ…そんなの、嘘だよ…」
「……」
「ねぇ、嘘でしょ?あなたはあの人たちとは全然違うよ。わたしを外の世界に連れ出してくれたし、たくさんのきれいなものを見せてくれたし、たくさんのことを教えてくれた…!ねぇ、お願い、嘘つかないで…!」
「嘘では…ない」
「そんな…」

 アンヘルの瞳から一筋涙が流れ、彼女はそれきり黙ってうつむいた。
 頭痛と耳鳴りがひどかった。それでも、何も知らない、何の非も無い彼女のために、せめて務めを最後まで全うしなければならないと、ゴルベーザはその一心で震える唇を開いた。

「人を殺めれば、その者の何もかもが永遠に己にのし掛かる。それはあまりにも重い…そなたには絶対に背負ってほしくない重みだ。確かに悪人は裁かれるべきだろう…。だが、そなたが手を下す必要はどこにも無い。約束してくれぬか…これからも、誰の命も奪わぬと…」
「……」

 アンヘルは下を向いたまま、ほんのわずかに一度だけうなずいた。それから不意にゴルベーザに背を見せ、ふらふらと頼りなく歩き出す。茂みの中まで進み、埋もれるようにそこへしゃがみ込んで姿を消した。
 彼には彼女の行動の意図が掴めなかった。広がった距離がそのまま心の距離のように思えて、あぁ、私は彼女に拒まれたのだと、そう唇の奥で呟いていた。






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