11.水浴

 ゴルベーザの心配は杞憂に終わり、アンヘルの食欲は目に見えて改善された。肉体が、食事を生命維持活動の一つであると思い出したようだった。
 生きていく上での動力が増えたことにより、彼女はより明朗に、感情豊かになった。表情筋が劇的に発達した訳ではなく、緩やかに起伏するのが生来の性分なのだろうが、その奥に在る喜怒哀楽をよく読み取れるようになった。
 ゴルベーザの外套を握りっぱなしだった手もいつしか外れ、自らの意思であらゆる先を目指して歩き回った。特に草花に興味があるようで、図鑑で見たと言っては足を止め、その形状に見惚れた。
 続く森を進んでいく。そのうちアンヘルが気がつき、ゴルベーザに話しかけた。

「川の音が聞こえるね」
「そうだな。少し休んでいこう」
「うん。……あ、あのね」

 前を行くゴルベーザが振り返った。立ち止まった彼女が何かを切り出そうとしている。

「…水浴び、したい」
「あぁ…分かった。では適当な場所を探してくる。そなたは水を汲み、火の準備をしておいてくれ」
「はぁい」

 川岸で彼女をそのまま待たせ、ゴルベーザが下流に向かって歩いていく。思わず頭をかいた。

(前回から間が空いてしまったな…)

 場を定め、結界を張る。アンヘルの元に戻ると、休息所を整えて待っていた。

「目印を残したからすぐに分かるだろう。気をつけるのだぞ」
「うん、行ってきます」

 入れ違いにアンヘルが駆けていく。ゴルベーザは薪が組まれた前に腰を下ろし、火を点けた。水筒に口をつけ、落ち着く。
 川のせせらぎを耳に入れながら静かに一人の時を過ごす。遠くで鳥が忙しなく鳴いている。天候の心配も無さそうだ。

(今は、地図のどの辺りか…)

 そして、思考は今日もアンヘルのことへと移っていく。
 共に行動する時間が増えるうちに、彼は彼女の本来の年齢が推測より上だということに気づいた。自我が薄く、たどたどしく言葉を紡いでいた初めの頃とは受ける印象がすっかり異なっている。時の狂った結界を出て、止まっていた精神だけでなく、肉体までもが急速に成長したのかと疑った程だ。

(あのミストの召喚士の娘と同じ頃…といったところか)

 傷跡一つない真っ白な肌。細く頼りない手足。大きな丸い瞳。小さな唇。鈴が鳴るかの如く高く華やかな声。何もかもが対極的で、これまで関わる機会が一切無かったか弱い存在。
 そこでゴルベーザははっと我に返った。

(…何を考えているのだ)

 納得がいくまで物事を分析する癖。しかし、相手が月の民の血を引く稀有な存在であるとはいえ、身体的特徴を思い起こして熟考するなどずいぶん無礼なことである。機会の無かった人間だからと、彼は自身に言い訳する。
 確かに、アンヘルに対して興味は尽きなかった。彼もまた、世界の美しさを理解出来ないまま時を過ごしてきた。彼女の発見は彼の発見であり、その微笑みは張り詰めた精神を解した。彼女が人の心を取り戻す様を見守ることは、自分の行いが確かに報われて、救われた気になった。
 アンヘルがこちらへ戻ってくることを察知し、顔を上げた。程なく、晴れやかな表情を浮かべた彼女が姿を見せた。

「ただいま。冷たくて気持ちよかったよ」
「そうか、では私も行こう」
「あっ、あのね…また、お願いしてもいい?」
「どうした?」
「あっちに…川の反対側にざくろが生っていたから…取ってほしいの」
「あぁ、構わぬよ」

 ゴルベーザはアンヘルと共に目的地へ向かい、対岸の木から果実をもいでやった。彼女が瞳を輝かせて受け取る。

「ありがとう!わぁ、美味しそう…」
「好きなのか?」
「うん、ざくろ大好き」
「ではもう少し採ってこよう。………さぁ、火のところに戻って体を温めていなさい。何かあればすぐに呼ぶのだぞ」
「うん!」

 彼女を見送り、手早く水浴を済ませた。魔力が研ぎ澄まされていくのを実感する。
 心身と魔力の穢れは密に結びついており、不純物の無い魔力で紡いだ術は非常に強力な効果をもたらすと言われている。アンヘルに魔術の基礎を教えてやりながら、彼もまた、余りある物量で力押ししていた自身の方法を省みていた。

(下位魔法でも一つ一つを突き詰めれば十分な効果が得られる。これが、黒や白魔法が広く浸透する理由なのだな…)

 髪を軽くまとめ、外套を羽織って休息所へ戻った。アンヘルはじっと一ヶ所に座り込み、ひたすら彼の帰りを待っていたようだった。

「あ、おかえりなさい」
「あぁ。どうした?それに手をつけていないではないか」
「えっと、あなたと一緒に食べたいの」

 目を丸くしたゴルベーザに、アンヘルは半分に切った果実を差し出す。

「今までのご飯が美味しいか分からなかったのは、一人で食べてたからかなって、思ったの。一人って…何も出来なくて、つまらないものだったんだね」
「そうか…そうだな、ありがとう」

 果実を受け取った彼の唇は、深い弧を描いていた。






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