10.食事

 ゴルベーザとアンヘルが共に旅を始めてから幾日が過ぎた。彼の予想に反し、アンヘルは弱音や不満を漏らすことなく健気に後をついてきた。これまで全く体を動かしてこなかったにも関わらず、体力は同じ年頃の娘以上と思われた。月の民の血の影響なのだろうか。
 しかし、やはり慣れない生活に疲労は溜まっているのだろう。夜になると、何とか回復を試みようと彼女は深く長い眠りについた。背負って進む訳にもいかず、旅の足取りは遅いものとなっていた。
 興味を抱く対象が少しずつ広がり、彼女の顔つきに多少は生気が灯るようになった。が、まだまだぼんやりと儚げに佇む姿の方が多い。そして、彼女を未だに物言わぬ人形と結び付けてしまうのは、極端に少ない食事量が原因であるとゴルベーザは考え危惧していた。
 今日もアンヘルは火にかけた鍋にそっぽを向け、頭上の夜空の中から本で見かけた星座を探し出す遊びに興じていた。彼女の報告を適当に流しながら、彼は穀物の雑炊を器に取り分けた。仕上げに刻んだ香草を乗せ、差し出す。受け取った彼女がきょとんと動きを止めるのを見て小さくため息。

(彼女は食そのものに興味が無いように見える。狂った時の中では、食べることすら必須ではなかったのか…?)
「…頼むからもう少し食べてはくれぬか?このままではそなたの身が持たぬぞ」
「…ん…」
「私の作る飯は不味いか?」
「分からない…」
「……。とにかく、ほら」

 ゴルベーザが器から一口分を掬い、アンヘルの前へ運ぶ。長くそれを見つめた後、彼女は何を思ったのか、食器を受け取ることなくそのままぱくりと食いついてしまった。呆気にとられるゴルベーザを余所に、時間をかけて咀嚼を繰り返す。
 飲み込んだ彼女が一拍置いて小首をかしげた。ゴルベーザが固唾を呑んで見守る中、ぽつりと一言。

「…今日のご飯は…美味しいと思う」
「そ、そうか…!なら、残りも食べなさい」
「うん。……あっ、そうだ、わたし、"いただきます"って言ってない…!いただきますも、ごちそうさまも、ずっと言ってなかった。ごめんなさい…」
「あ、あぁ、気にするな」

 改めて二人で手を合わせ、食事を再開した。先程まで緩慢だったアンヘルの動作は変化が生じている。この数日間で何度も目にした光景。素直に喜ばしかった。

「ちゃんと挨拶しなさいってお母さん言ってたんだった。守らなくちゃ」
「そうだな…」
(彼女は家族と暮らしていた記憶を思い起こす度に成長するように思える。いや…そうか…己を守るために失ってしまったものを、一つずつ取り戻しているのだな…)

 彼女には永すぎる孤独を過ごした自覚が無い。自身がどれだけ傷つき、疲弊した状態なのかも分かっていない。願わくば、このまま理解しないうちにただの一人の少女に戻ってほしいとゴルベーザは思った。
 食事を終え、アンヘルが教えられた通りに食器の片付けを始めた。ゴルベーザは焚き火に枝を足し入れ、張り巡らせた結界を確認する。視界を歪め、彼らの気配を極端に弱めるもの。獣から見れば、炎の赤すらそう認識出来ないだろう。

「……」

 ゴルベーザがちらりと顔を上げる。噂をすれば、とやらか。

「アンヘル、こちらに来なさい。…どうした?」
「向こうに誰かいる…」
「あぁ、そうだ。気づかれることはないだろう。私が見ているから、そなたはもう休みなさい」
「うん…」

 アンヘルが炎の元に駆け寄り、荷物の中から寝具を引っ張り出した。それをゴルベーザの真横へ持ってきて、じいと大きな瞳を向ける。

「ここで寝てもいい…?」
「あぁ」
「ありがとう。明日もいろんなこと、教えてね…おやすみなさい…」

 アンヘルが眠りに落ちた。獣の気配も遠ざかったようだった。
 彼女を守り、気を張りがちな生活にも慣れた。この地域の魔物は総じて弱く、警戒に値する程ではない。それよりも、彼女が世界への興味を持ち続けるよう、孤独な時を思い出さないよう言葉を選ぶことに神経を使った。
 眠る彼女を見下ろすゴルベーザの瞳には、かつて憎しみに囚われた毒虫の面影は一切無い。あるのは弱き者にかけてやる慈しみ。彼女を教育し慕われる現状に、体の中の欠けた一部が埋まっていく思いすらする。
 だが、それはあまりに遅すぎた感情。
 炎によって出来たアンヘルの影の中に幻影が浮かび上がる。彼女と同じように無垢な寝顔をした赤ん坊。特徴的な白銀の髪。生まれたての姿でも見て取れる、父母の遺伝子を継ぐ面立ち。

(……セシル)

 本来情をかけ、育ててやらなければならなかったのは彼。"ゴルベーザ"の始まりの象徴。何を以ってしても戻らない、最後の欠片。

(…すまぬ……セシル、すまぬ…!)

 ゴルベーザが両手で顔を覆い、うなだれる。彼は幻に向かって、もう幾度目か分からない謝罪の言葉をかけ続けた。






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