ナイト・キャップ

「閣下、夜分に失礼します、エルダです。報告書を届けに参りました」
「入れ」
「は」

 重厚な扉を開き、妙齢の女性が大股で踏み入る。ごく軽装ではあるが、秘書の肩書きであるにも関わらず、上半身に鎧を纏い、短剣を備えた姿はバロンの民の目には奇怪に映るものだった。
 国が誇る八軍団の一つであり、王が最も信頼を置く"赤い翼"。つい先日、隊長の離反、追放という衝撃的な形で代替わりしたこの一団をまとめ上げるのが、秘書から"閣下"と呼ばれた男、ゴルベーザだった。
 私室のソファに座るゴルベーザは、その代名詞である漆黒の甲冑を取り払い、魔道士が好みそうな布地の多いローブ姿となっていた。エルダが正面までかつかつと回り込み、跪いて書類を差し出す。彼は受け取ると同時に一気に目を通し、常識で測れば有り得ない早さで返却した。

「詳細は明日にでも確認しよう」
「畏まりました。では私はこれで」
「そう急ぐな。業務はこれでしまいだろう?」
「ええ」
「寝酒にでも付き合え」
「……卵はございますか?」
「何の話だ」
「"ナイト・キャップ"を御所望では?」
「知らん。お前は酒の話になると目の色が変わるな」
「私を供に選んで下さり感謝の意が尽きません閣下。お陰様で記憶を無くす毎晩です」
「あぁ、"口"が落ちたな。禁酒令を敷くべきか」
「…失礼致しました。今の環境に少々浮かれているのは事実です、戒めます」

 主従関係とは思えない軽口の応酬に加え、二人の表情はほぼ無である。そうするうちに、棚からブランデーボトルを取り出したエルダが椅子を引き連れて戻ってきた。無言で二杯のグラスを満たし、無言で渡す。ゴルベーザも当然何も言わず、ただ酒を通して上下する喉の音だけが彼の中で鳴った。

「…それで」
「はい」
「卵とは?」
「あぁ…先程のカクテルの材料の一つです」
「フン、悪趣味だな」
「混ぜものがお嫌いなのは理解しておりますが、趣味の良し悪しを断定されるのは承知致しかねます」
「ならば始めから勧めるな」
「私が呑みたかったもので」

 会話を切り、特徴的なグラスを揺らしたゴルベーザを、エルダはじっと見つめていた。
 "赤い翼"の部隊長、ゴルベーザ。その正体は、魔族を掌握し、世界に眠る八つのクリスタルと星そのものの支配を目指す黒き魔人。
 吹き溜まりの中から彼に拾い上げられ、新たな身体に造り変えられてから、それなりの時間が経った。経験がただの一度も無かったから、まともな言葉を発せられる唇を与えられても敬意はそこから出ていかなかった。
 それでも彼はエルダを側に置いた。その平坦な音色と、反して"鼻で嗅ぐ"と彼が表現する忠義の香りとでも言うべき存在の量の落差が気に入ったらしい。実際、彼女は誰よりも気安く主に接し、誰よりも主の心情を読んで尽くした。

「…生き返る。化けの皮を保つのも一仕事です」
「……お前はよくやっている」
「あら珍しい。次の御用命は?」
「その一つの仕事すら成せそうにない馬鹿がいるだけだ」
「畏まりました。お任せ下さい」
「やめろ、あれはまだ泳がせておく」
「そろそろ運動しないと肥えそうです」
「候補は他にもいる…今は待て」
「は」

 ゴルベーザがグラスを傾け、深い琥珀色の液体を残らず流し入れた。次を注ごうとするエルダを制し、頬杖をつく。どこか遠くを眺める視線に、彼女も倣って同じ方角を向く。

「……人の世が懐かしいか?」
「いいえ。かつて私が居た世界は地獄です。人の世など何一つ存じません」
「そうか」
「諸々の味も、今の身体になってから覚えたのですよ、閣下。お忘れですか?」
「まさか」
「それは良かった。……今宵はこれにて」
「あぁ、足労だった」

 今が退室する区切りだろう。そうエルダは判断し、ゴルベーザも応じた。
 立ち上がり、棚へと歩もうとする彼女を呼び止める一言。ぐるりと反転した彼女と彼の目が合った。

「持っていけ。私のおらぬ所で好きに混ぜることだな」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
「明晩も来い。身一つでな」
「あぁ…畏まりました」

 初めて彼女が薄く笑っていた。その目尻はどこか不相応に幼いようにも見え、しかしすぐさま元の鋭利な眼差しへと戻る。
 後片付けを済ませ、行きと同じく大股で颯爽と去った彼女の背中を、ゴルベーザは眠気が全身に回るまで見送り続けていた。






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