黒さんと私〜エピローグ

「あっ、黒さん…じゃなかった、セオドールさん!おはようございます!」
「あぁ…おはよう」
「ホント早いですねぇ〜…私の方が先に来るべきなのになぁ」
「家にいてもやることが無いからな」
「もー、お仕事に必要なのはメリハリですよ、メリハリ!趣味でも持ったらどうですか。楽器触ってみるとか、生き物飼うとか」

 そう呼び掛けても、彼はわずかに首を傾けるだけだった。
 黒さん、改めセオドールさん。今の彼は、バロン城内に研究室を構える博士として生きている。
 真月での戦いから誰も欠けることなく帰還し、一連の大災害が何とか終息に向かう頃、セオドールさんは本物の月を目指して旅立った。ただし、必ず戻ってくるという約束で(しかも期限付き)。皆で説き伏せ、セシル陛下とセオドア様が泣き落とし、最後に私が心をぼっきり折った賜物だった。
 城仕えの身となった彼は私を助手という名目で黒魔道士団から引き抜き、雑用を任せてくれている。充実した日々だった。
 城内に響き渡る鐘の音を聞きながら、二人だけの朝礼。セオドールさんが一日の予定を淀みなく述べていく。

「…私からは以上だ」
「はい。私の方は、引き続き土の経過観察と各原料の加工です。想定より進んでいるので、お昼のどこかで買い出しに行こうと思ってます」
「承知した。頼むものがあればまとめておく」
「了解です!」
「土を診る前後は必ず私に防護状態を確認するように」
「心得てます!では、今日も一日よろしくお願いします!解散!」

 号令と共に執務机へ戻るセオドールさんを見送りながら、ふんすふんすと鼻を鳴らす。毎日こうして仕事を始める度に、心に活気とやる気が満ちるのを実感する。
 黒魔道士団でこんなに通った声を出せば、白い目で見られるに違いない。ようやく巡り合えた最高の職場、最高の上司。もう一つの家族…月の同胞を諦めさせてしまった彼に、お詫びの意味も込めてこれからももっともっと尽くしていきたい。
 専用のローブや手袋を身に着け、耐性強化の呪文を唱えてからセオドールさんのチェックを受ける。真月から零れ落ちた欠片によって汚されてしまった大地。それをよみがえらせる方法を見つけ出すのがこの研究室と"博士"の存在意義だ。
 サンプルの土が並べられた一画へ一人で入ることを最近許された私は、それぞれ何かしらを施したガラスの鉢を一つずつテーブルへ置き、変化がないか目を凝らしていった。

「ん〜〜〜〜……この辺は変わりないかな〜……」

 土に乗せた短冊状の判定紙をピンセットで摘まみ上げ、所定の位置へ貼り付けた。一日一枚、掛けること棚一面の鉢分。変化もほぼ無いと言っていいけれど、それはそれで結果の一つなのだ。
 果てしない道のりなのはよくよく理解しているから、すぐに成果が上がる事柄も同時に手掛けて気を保つ。それも含め、みんなあの人が一から丁寧に教えてくれた。

「えーっと……よしよし、こっちは順調だね。このまま上手くいきますように…」

 全部の鉢を診終え、棚周りの掃除に過去の判定紙の保管作業も続けて済ませてようやく一息。目元以外がほとんど覆われているから暑くなってしょうがない。急いで防具一式を脱ぎ捨てセオドールさんを呼んだ。

「終わりましたー!……はー、早くお水飲みたいなぁ…」
「待たせたな…。どこも触れていないな?」
「大丈夫です」
「体調に異変は?」
「喉乾きました」
「そこの水差しの中身を全て飲んでおけ」
「わーありがとうございます!さっすがセオドールさん、気が利きますねぇ」
「………よし、いいぞ。ご苦労」
「はーい」

 厄除けの魔方陣から降りて、これで今日の観察は完了。セオドールさんが用意してくれたお水…薬の味がするけど…を一気に飲み干し、水差しを洗い場へ置いた。
 ずいぶん大事にしてもらっているなぁ、と、何かにつけて考えてしまう。これもそう。万が一毒素を取り込んでしまっていても、それに気づきやすくするための手段の一つ(私も作れるようにならなきゃ)。頼めば必要な物は何だって経費で買ってくれる。私を助手に指名した時も、かなりの熱量で推してくれたらしい。
 まぁ、確かに、私が一番あの人とを会話を積み重ねてきたという自負はある。仕事も何とかついていけてる。だけど、今後規模がもっと大きくなって人が増えた時、私は分不相応になってしまわないだろうか。
 いや駄目だ。そうならないように頑張るんだ。二人きりの今のうちにセオドールさんをたくさん頼って、ちゃんと順に成長していかなきゃ。
 ぺんぺんと頬を叩いて気合を入れ直す。まだ朝一の作業が終わったばかり。自信を失くす暇があるなら自信に繋がる実績を増やすべし!
 私は一度ガッツポーズを決めてから、踵を返して地面を蹴った。

*

 時刻は四時を回った頃。早々に買い出しを終わらせ、私とセオドールさんは部屋の隅で一服ついていた。頼まれていた品物の一つは出来立ての揚げ菓子。彼は意外なことに、お酒から甘味まで何でも嗜む人だった。

「おいしいおやつに果物を使ったジュース…んん〜贅沢。一番大きな瓶担いで入れてもらった甲斐がありました」
「あぁ…酒でも漬け込んでいるのかと思っていた」
「流石にそこまで奔放じゃないですよ…。それに、私は自作より買いに行く派ですね」
「そうか。そなた、酒は強いのか?」
「普通なんじゃないですかね。たまーに晩酌するぐらいですよ。セオドールさんは?」
「まぁ…晩酌はほぼ毎晩だな」
「うーんイメージ通り。でも、休肝日は作った方がいいと思いますよ?」

 うなずこうとした彼が、何かに気づいたのかふと顔を上げた。

「客だ」
「ありゃ、片付けますか」
「いや、よい」
「ってことは…」
「こんにちはー!」
「セオドア様!カインさんも!おかえりなさい」

 聞こえた足音の主は赤い翼の部隊長、カインさんと隊員のセオドア様。遠征から帰ってきた日は比較的自由時間があって、彼らは大抵ここに遊びにやって来る。

「と、いうことはぁ〜?」
「じきセシルたちも来るな…まったく、いつからここは溜まり場になったのだ」
「フッ、やることはやっているさ。なぁセオドア」
「はいっ。研究室宛の荷物はこちらです。あとこれはお土産」
「わーいありがとうございます!セオドールさん、ジュース全部空けちゃいましょう。運んでもらっていいですか?」
「分かった」

 私物を収納している戸棚の一番下。セオドールさんが大瓶を取り出し台の上に置く。しばらくコップを集める私を見守り、向こうから声が上がったのを聞いて振り返り手を上げた。

「陛下とローザ様もいらっしゃいましたか」
「あぁ。また食うものが増えた」
「ん〜〜〜贅肉も増える一方…今度鍛錬に付き合って下さい…」
「そうだな…そなたに教えることはまだ山程ある」
「アハハ、おそろしや」

 お盆にコップや食器を乗せ終えて。歩き出す前に。

「ねぇセオドールさん」
「ん?」
「私、今あなたのおかげでとっても幸せですよ」

 心の中に溢れんばかりに満ちる思いを、そのまま口に出した。
 瓶を抱えていたセオドールさんが動きを止める。優しい目。それらはじっと私を捉え、それからゆっくりと細くなる。

「その言葉、倍にして返そう…エルダ」

 にへら、と唇が変な形にひん曲がった。

「へへへ…この程度で倍ならこの先大変なことになりますよ。だって、ねぇ、陛下も、ローザ様も、セオドア様も、カインさんも、他の皆さんもだーれも含まれていないんですもの」
「そうか」
「んふふ、ふふ」
「何がおかしい」
「いーえ、なんにも」

 あなたが生きていてくれて良かった。あなたの周りに人が集まるのは、きっと皆私と同じように、何回でもそう実感したいから。

「兄さん!持ちますよ」
「客人は座って待っていろ」
「セオドール、先にサインをくれ」
「カインさん!私がやりますからこっちに回してくださーい!」
「じゃあそれは私がもらうわ」
「あっすみませんローザ様、お願いします。セオドア様〜、あそこにあるプレート入り口に提げといてもらえますかー?」
「分かりました!」

 とても執務中とは思えない、にぎやかなひととき。でもいいんだ。皆毎日バロンのために一生懸命頑張っているんだから。
 誰もが笑って暮らせるこの日々が、これからもずっと、ずーっと続いていきますように!






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