紫の後悔

 男は利き手の甲を顔の前へやり、指を広げ、その先をじっと見つめていた。
 女々しい所作かもしれなかったが、バロンの騎士たちにとっては真逆の意味を持っていた。
 誇り高い騎士に心身の乱れは許されない。乾燥やささいな負傷から守るため戦化粧を施すのは常識であり伝統であり、求められる器量の一つだった。
 男の爪はところどころが欠け、紫の塗装は均一ではなかった。これだけの距離でないと分からないものだったが、それ故己の目に入る度に舌打ちしそうになった。もちろん、原因は彼が作ったのだが。
 仲間と祖国を裏切り敵方に下った。全ての者との縁を絶った。その中には爪の手入れを任せていた化粧師も含まれていた。
 彼女は城内でも特に人気の高い化粧師だった。おそらく若い女性ということが一番の理由だろうが、男が竜騎士団団長の地位を利用して優先的に予約を取る程、腕も確かだった。
 かつての君主でもなく、親友でもなく、幼馴染みでもなく、何故か彼女の記憶ばかりが蘇る。
 当然かもしれなかった。彼の身体の一部こそが彼女との思い出の品なのだから。
 男は諦め、両目を閉じた。

*

「こんにちは。流石は団長様、時間ぴったりですね」

 化粧師のエルダがごく薄く笑う。愛想を振りまくとは言い難いが、生業にしているだけあって小綺麗な印象を抱く女だった。
 もっとも、化粧師特有の口布で顔の半分が隠れていることがほとんどだが、周りの者に言わせればそれがまた良いらしい。何が良いのか俺には分からない。

「最近は…少しお疲れ?」
「…相変わらず目ざとい」
「だって、ここに出てますもの」

 彼女は早速布に液体を含ませ、俺の爪の汚れを落とす。どうだったら何の症状だと教えられた気もするが、もう全て忘れた。

「何か、心配事かしら?」
「そうだな」

 はぐらかす意図を込めて即答すれば、彼女もそれきり黙った。
 汚れを落とした後は、やすりで表面と形を整える。俺の指に添えられた彼女のそれは細く、ほのかに温かく、このような仕事をしているにも関わらず塗料の類は一滴も付着していなかった。

「今日も同じ色?」
「あぁ。………それは?」
「え?」
「何か描いてある」
「あら嬉しい。最近ご婦人方の間で流行り始めていて、試しに」
「へえ」

 彼女が自分の手を俺に近づけた。薄い桃色の下地に五弁の花と蔦と思われる模様。それが全ての爪に描いてあった。あまりに小さく、見ているだけで目が霞みそうだ。

「よくそんな細かいものを」
「流石に目が疲れました。でも綺麗でしょう?」
「あぁ」

 保護塗料を塗り終え、そのまま乾くまでじっと待つ。動きを全て封じられ、どうにも耐えられず、代わりとばかりに口がよく回るようになる。
 多分、他の奴らも同じなのだろう。そして彼女はそんな男たちと常に接している。だから相槌が上手く、絶対に他人に会話を漏らさなかった。まぁ、このような職業の必須技能とも言えるが。

「カイン様の爪は細長くて、絵も映えそうですね」
「そんなことまでするつもりはないな」
「あらそうですか?団章とか、魔術文字とか、アイディアは色々あるんですけれど」
「だったら黒魔道士に需要があるだろう」
「それじゃあ今度売り込みに行ってこようかしら」

 道具を片付ける彼女を見つめ、俺は"今度"という言葉を胸の中で繰り返す。いつか、近いうちにという曖昧な表現。…そのような猶予があるのだろうか、今のこの国に。
 バロンの情勢は日に日に緊張を増している。各軍の遠征は完全に侵略の意味を持つようになってしまった。先日ミシディアを目指し出発した、セシル率いる"赤い翼"の目的もクリスタルの略奪だ。溢れそうな疑問の数々を飲み下し、黙って船に乗り込んだあいつの暗い表情が強く焼き付いている。
 バロンはじき乱れる。俺はほとんど確信を持っていた。そして彼女は…彼女だけでも、その乱れから逃げてほしかった。
 黙り込む俺をめずらしいと思ったのだろうか、彼女が覗き込む仕草を取った。

「カイン様?お疲れなら、すぐ切り上げましょうか?」
「いや。……エルダ、聞いてほしいことがある」
「はい」

 何かに対して区切りをつけようと、長いため息が出ていた。

「すぐにバロンから離れた方がいい」
「……黒魔道士様の件は?」
「あれは世辞じゃない。だが状況が状況なんだ」
「そんなに…逼迫しているのですか?」
「あぁ。おそらく、どこかが…近いうちに崩れると思う」
「……そうですか。分かりました」

 そう言って彼女は静かに化粧箱を閉じた。

「良い所だったんですけれど。まぁ、仕方ないですね」
「……」
「次はどこへ行こうかしら。…あぁ、そうだ」

 彼女が後ろを向いてうつむく。口布の結び目に手をかけ、しゅるりと解いた。片手にそれを持ち、振り返ったその瞳は寂しさが滲んでいた。
 自惚れていいのなら、俺との別れを惜しむ表情だと思った。

「これ、差し上げます」

 渡されたのは、先程使われたばかりの紫の瓶。

「いいのか?」
「えぇ、あなたしか使っていない色ですから。使いさししかなくてごめんなさいね」
「いや、俺の方こそ、渡せるものがなくてすまない」
「いいですよ。またいつか、お会い出来た時にでも」
「そうか」
「…期待していいですか?」
「……やめておけ」

 そう答えれば、彼女は不自然な流れとも取れるような、純粋な笑顔を浮かべていた。

「あなたのそういう取り繕わないところ、好きですよ。でも、やっぱり期待させてもらいます」
「…エルダ…」
「またどこかでお会いしましょう、カイン様。いつでも、どこでもいいですから、ね…?」

*

 瞳を開く。そうして男は幾度目かの後悔に襲われる。
 バロンの外へ彼女を逃がしたのは間違いだった。あれからバロンはさらに変わってしまった。もしも彼女が隣国であるダムシアンに移動していたとすれば、あの襲撃に巻き込まれなかった保証は一切無い。

(いや…そうでなくとも、もう俺はあの言葉に応えられない。分かっている。分かっていて、この道を選んだ…!)

 がしがしと髪をかき乱す。感傷はあの男への憎しみで塗り潰せ。何度もそう言い聞かせてきた。そしてこの先も。

(すまない、エルダ…どうかお前は生きていてくれ、どうか…)

 あまりにも相応しくない懇願。それでも裏切り者は頭を垂れ、赦しを得る代わりにと彼女の無事を祈り続けた。






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