黒さんと私

「あっ、黒さーん!おはようございます!」

 廊下の少し向こうに彼を見つけ、私は逃がすまいと駆けた。

「おはようございます!」
「……」
「おはようござ」
「聞こえている」
「では黒さんも朝の挨拶を!」

 はあ、と重いため息。そんなものでめげる程、私の神経は細くない。

「こんな時だからこそ、挨拶はきちんとしませんとね!」
「……それから、その呼び名は何なのだ」
「あれっ、お話してくれるんですか?わー私たちの仲も一歩進んじゃいました?」
「目に余るようになっただけだ。私はゴルベーザ…そのように呼ばれる筋合いはない」
「えー呼ぶ筋合いもないですよ。毒虫なんて、縁起の悪い」
「……」

 私の返しに彼は苦い苦い顔になって黙り込んだ。
 黒さん、それは私が勝手に付けた名前。ゴルベーザ、それは彼のかつての姿。
 十数年前の世界中を巻き込んだ戦役。その引き金は彼が引いたらしい。らしいというのは、その時の私は故郷の村で走り回るただの幼い子どもだったから。そして、バロン城の王の間で初めて目にした彼は、弟であるセシル陛下を救おうと奮闘する兄でしかなかったから。

「今は"ゴルベーザ"ではないんでしょう?大体のことは剣士さん…じゃなくて、カインさんから聞いてますし」

 最初は完全に無視を決め込まれていたんだけど、しつこくつきまとっていたら、ほんの少しでも気を留めてくれるようになった。
 ほんの少しだけど。こっちを向いて黙り込んで、そのまま立ち去ってしまう程度だけど。

「罪を捨てるつもりはない」
「まぁ、それは、あなたの決めるところだと思いますけど。でも名前だけでどうこうもならないでしょう?」
「……」
「という訳で!呼びやすいんですから私は"黒さん"でいきますよ」
「口の達者な女だ。好きにしろ」
「はーい、ありがとうございます、黒さん!」

 大股で歩いていく彼をにこにこと見送る。こんなに会話が続いたのは初めてかもしれない。嬉しい。
 と、そこへ三人目の声が上がった。

「大したものだな、エルダ」
「カインさん。おはようございます」
「おはよう。お前のその執念、見ていてなかなか面白い」
「どういう意味ですかぁ」

 声の主はカインさん。戦役後出奔した英雄であり、素性を隠してセオドア王子を助け、私を一行に加え、バロン城奪還を果たした立役者である。本来は様を付けなければいけない将校級の人なんだけど、一緒に旅をした縁で気軽な態度のままでいさせてもらってる。

「別に深い意味は無いさ。ま、嫌われん程度に励むことだな」
「ふふふ、言われなくても。じゃあ、朝ご飯の用意を手伝ってきますね」

 会釈して、私は再び駆けた。
 私に出来ることは、雑用と、黒さんを独りにさせないことだけ。皆に負い目を感じながら、体中に傷を作って戦うのは間違いなんだと気づいてもらいたい。だって、眠る陛下を見つめる優しくて切ない眼差しを、私は…ううん、誰もが知っているんだから。

「よーし、手伝いが終わったら、黒さんに一緒に食べましょうって言いに行こうっと」

 この気持ちが何に分類されるのか、正直今は考えたくない。ただあの人の苦しみがほんの少しでも和らいでほしいと思う。
 ねぇ黒さん、私、そうなる日が来るまで諦めませんからね?






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