夜は彼らの為に明けないけれど

「失礼します。お薬をお持ちしました」
「……あぁ」

 給仕服に身を包んだ妙齢の女性が部屋に踏み込む。月明かりの頼りない光以外は闇に埋まる、夜半の私室。窓際に配置されたベッドの縁には、上半身の鎧と肌着を脱ぎ去り、息を殺すように床を見つめ続ける一人の男が座っていた。
 女性が近づいたことでようやく彼が顔を上げた。白銀に波打つ特徴的な長い髪が揺れる。整った二重の瞳、筋の通った鼻、男にしては白く曇りのない肌。そして、男でも一目置くような鍛え上げた肉体。性差をも超え、人間としての美を揃えた稀有な存在として、バロン城内でしばしば話題に挙がる騎士だった。

「セシル様…ずっとそのようなお姿でいらっしゃったのですか?お風邪を召してしまいますよ」
「いや…こうやって月明かりに晒していると、いくらか楽になれる気がするんだ」
「そうですか…」

 女性がまた一言断って、隣に座る。手の内にあった薬…軟膏の容器の蓋を開ければ、彼がそれを受けてごそりと動いた。

「いつもすまない、エルダ」
「いいえ。あなた様のお力になれて、私は嬉しいのです」

 どういった表情を浮かべたかは見せないまま、セシルは髪の毛を前へと流し、うなじを露わにした。
 彼は国内でも数人しか使い手のいない暗黒騎士だった。暗黒とは正式な名称であり、禍々しい漆黒の出で立ちを揶揄した俗称でもあった。特別な技法で作られた鎧は装備者へ力を与え、痛みを与える。痛みに耐えきる者だけが、武術とも魔術とも説明のつかない深淵の闇を授けられた。
 セシルのうなじと背骨に沿った皮膚は火傷の痕のように変色し、硬く引きつっていた。ほとんどが知り得ない、暗黒騎士として戦う代償の一つだった。
 エルダが軟膏を指に取り、体温と馴染ませてから痕に塗り込んでいく。良くなる兆しは一向に表れない。しかしそれでもセシルは喜んだし、彼女も彼のために必要な行為だと考える。
 真の意味での家族はおらず、鬱々とした葛藤を抱え込むセシルにとって、職務と献身の間合いを見事に読み静かに控えるこの侍女は、親友とはまた異なる類の信頼を置く相手であった。

「…ミシディアに遠征することになった」
「はい」
「あんな…武力を持たない小さな集落を、一国の軍隊が攻めるんだ。どこに正義があるというのだろう」
「……」
「僕は…陛下のお考えが分からなくなってしまった…」

 エルダの手が止まる。ただ添えるだけになって、体温を浸透させるように。

「正義なら、あなた様の心の内にありますよ」
「…そんなことは…」
「では、なぜ私を助けて下さったのですか?ご自身の立場が危うくなりかねないことでしたし、そればかりか嫌悪する侍女を押し付けられたというのに」

 うなだれていたセシルが緩く顔を上げた。視界に入らなくとも後ろの彼女を見やるようにわずかに首を動かす。

「僕がおかしいと思っていたのは君たちを物扱いする貴族だ。それに、手を上げられた場面を目撃して見過ごせる訳がない」
「その"訳がない"というのが、あなた様がお持ちになっていらっしゃる、あなた様の正義なのですよ」

 ゆっくりと手の平全体で撫で下ろす。その背中がかすかに震えた。感覚が鈍くなったと苦笑していた治療の初日から、想定とは少し外れた箇所で成果が出始めたらしい。
 エルダがセシルの侍女…専属の使用人となってまだ日は浅い。
 彼女にとって彼は二人目の主人だった。最初の主人は選民思想が甚だしく、自らより低い身分の者を徹底的に見下し、どう扱うのも自由だと理不尽な暴力を振るった。下賤の民が育てた食材を下賤の使用人に調理させ体内に収め、卑しい無数の手が触れたありとあらゆる物に囲まれて生きているというのに、それでも尊い存在とやらを維持出来るらしい。そういう器の小さい男だった。
 侍女が主人の所有物であることは事実のため、誰もエルダの姿を目に入らないものとして避けていた。しかしこの暗黒騎士は違った。行き過ぎた躾の現場に出くわし、声を上げた。彼女の問題は公然に晒されることになり、すると今度はここで憐みの手を差し伸べなければ騎士道に反するという空気が生まれ、人々はこれまでの態度を翻した。
 こうしてセシルは図らずとも集団の心理を利用する形でエルダを救い出し、身元を引き取った。初めは彼女を持て余したが、互いに距離を測りながら信頼関係を築いてきた。

「軍人は上官に従うのがお役目です。そうしなければ統率が乱れてしまいますから、ある程度己を曲げ、心を殺す必要はあると思います」
「あぁ、その通りだ」
「けれどもし…それでも耐えられないことになれば、それはもう、あなた様の居場所がすでによそへ移ったということではないでしょうか」
「!」

 セシルがわずかに目を見開き、上半身ごと捻ってエルダと視線を交わした。
 深い微笑み。昏い感情で昂った彼の精神を落ち着かせようと、一旦そこで切り、じっと見つめる。彼がゆっくりとした動きで膝頭を突き合わせ、彼女と対峙する。

「かつてはここだと決めた場所なのですから、離れるのはとても…とても難しく、大変です。ですが、人は誰だって変わることが出来ます。そのきっかけは、私はあなた様に与えていただきましたけれど…あなた様はきっと、ご自身で掴み取れるはずですわ」

 言いながら、エルダは確信していた。揺らめく紫の両目には、すでに暗黒の鎧に似つかわしくない光が宿っているのだから。
 あとは、彼が己を映す何かさえ見つけ、向き合うだけでいい。

「…そう、だろうか」
「えぇ。今はまだ、"いつか"でよいと思います。いつか、その時が来たら…きっと、私の言葉を思い出して下さいませね」

 もう一度笑いかければ、セシルもやっと唇の端を小さく上げて応えることが出来た。

「ありがとう、エルダ。もう少し、何とかやってみるよ」
「はい」
「君は本当に……上手く言えないけれど…君と会えて、良かったと思う」
「ありがとうございます。光栄ですわ」

 エルダはそう返し、傍らに置いていた薬の蓋を閉じた。
 シーツの擦れる音。手元を確認していた彼女が空気が揺れたことに気づく。
 それとほぼ同時に、抱きすくめられていた。

「セシル様…?」

 ほとんど動揺しなかったのは、どこかでこうされる日が来るだろうと身構えていたからか。それとももっと単純に、相手が彼だからだろうか。

「すまない……すまない、少しだけ…」
「えぇ、大丈夫ですよ」

 首筋にうずまる白銀のくせ毛へ頬を傾けながら。

「明日には、あなた様は赤い翼の部隊長です。けれど今は…何でいらっしゃっても構いませんよ…」

 生まれた衝動に逆らわず、腕を伸ばしてすぐそばの頭を撫ぜた。抱擁が強まり、思わずくすりと隠れて笑みを零す。
 どうかこの優しい騎士を導いてくれますように。窓の向こうに浮かぶ月にそう願いを掛けながら、エルダは静かに両のまぶたを下ろした。





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アヤミさんより頂きました、「侍女を助けたのがセシルだったら」でした。
リクエストありがとうございました。




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