追憶〜家族を訪ねて

 この世界は"青き星"と名付けられていて、"宇宙"という果てのない大海に浮かぶ船のようなもの、とディーナは夫に教わった。
 地上から見える星々もまた船であり、ただし生物が乗り込んでいる確率はほとんどゼロという。しかし、夫の父…彼はもう故人であったが、その一族は放浪の末青き星を見つけ、彼らの感覚で言う"すぐ側"に留まり、二つの星の行き来を可能にする代物を造り出し子孫へ遺した。
 "月の民"と呼ばれる一族の血を引く夫、セオドール。彼に同行する形でディーナは青き星を発ち、彼がかつて眠っていたという地に降り立った。
 そこから少しの時が過ぎる。

「そろそろ約束の時間だな…行くとしよう」
「はい」

 セオドールに呼びかけられ、ディーナが席から立ち上がった。部屋を出、長い廊下を並んで歩いていく。
 きらきらと、まるで宝石が輝くがごとく光を反射する薄青の壁、床。クリスタルを安置していた聖域とよく似ているとセオドールは言った。しかしこちらはただの居住区であり、文化が異なるからだと納得しつつもディーナにはいつまでも眩しすぎるものだった。

「意外と早くに目覚められたな」
「ご無理をされていないとよいのですが…」
「まぁ、我らと会って励みとなることもあろう。顔を見せてすぐ切り上げればよい」
「そうですね」

 目的地はセオドールの伯父、フースーヤが療養する離れである。彼はかつて月の番人として、来るべき日のために眠りにつく同胞を見守り、悪しき魂を討つ一行に助力した。その後同胞を一人加え再び静かな時を過ごしていたが、ある襲撃事件を境に生死不明となる。
 これは事件の際青き星に逃がされた新たな同胞、セオドールの視点の話である。彼が月に戻ったのはフースーヤの無事を確かめた上で伴侶となったディーナを引き合わせるためだった。

「最悪の事態も覚悟していたが…祈りが届いた、ということなのだろうな」

 彼の言葉にディーナは微笑んだ。
 目的地に到着し、呼び鈴で来訪を知らせる。中から出てきたのは女性だった。

「ごきげんよう、お二方。フースーヤ様、お見えになりましたわよ」

 道を譲られるや否や、セオドールが駆けた。退室する女性にディーナは会釈し、抑えた足取りで後に続く。
 彼らの滞在する客室と基本を同じくする内装。ただし、外壁に当たる一面は全てが透明な窓となっていて、外の景色がよく見える。また医療用と思わしき大きなベッドが中央に置かれ、管のようなもので隣の機械の箱と繋げられていた。

「フースーヤ…無事でしたか…!」
「おぉ……ゴルベーザ…息災じゃったか…」

 ベッドの上には老齢の豊かな白い口ひげを蓄えた男性。顔つきははっきりとしており、刻まれた皺をさらに深くして微笑んでいる。差し出された手をセオドールがしっかりと握り、震える声で返事した。

「はい…!青き星は救われました。あなたが魔導船を使い、私を逃がしてくれたおかげです…!」
「そうかそうか…こちらも目覚めた同胞に助けられ、この通り生き延びたよ。……して、そちらのご婦人が、同行された方かね?」
「えぇ…紹介します。妻のディーナです」
「妻とな!?」

 あまりの衝撃だったのだろう。フースーヤが飛び上がらんばかりの勢いで身を起こした。慌てたセオドールに制され再び横たわったが、両の瞳は開かれたままだ。

「初めまして、フースーヤ様。ディーナと申します。お会い出来て光栄ですわ」
「何と……おぉ、驚いたぞ…。そうか……彼女がおぬしの"未練"…だったのだな…」
「…はい」
「ディーナ殿、このような遠いところまでよく来て下さった。さぁさぁ座りなさい。話を聞かせておくれ…」

 それからセオドールは事の顛末を語った。月の民以上の文明を持つ存在にフースーヤは驚きを隠せなかったが、セオドールの言葉をそのまま信用する様子だった。
 説明が一段落したところで、先程の女性が温かい飲み物を持って現れた。透き通り無味のそれは一見白湯のようだが、ディーナがこれまで口にしたどんなものよりも清涼感があり、胃を越えて身体の隅々まで行き渡る感覚がはっきりとある未知の一品だった。

「この地に降り立った我々は、眠りから目覚めたという同胞たちに出迎えられました。そして、彼らが最初に目にした光景は、館の入り口で倒れるあなただったと聞いています。あの場で…何が起こっていたのでしょうか?」
「ふむ…」

 フースーヤが窓の外を見やる。

「一言で言えば…私の息の根が止まっていなかったことを見落としたのじゃ」
「見落とす…ですか」
「うむ。あの時攻撃を食らい、私は意識を失うだけで済んだ。しかし敵は老いぼれの残骸を見て死んだと判断したようじゃ。気がつけば少女もゼロムスの亡霊も消えておった。もしもおぬしが一緒にいたならば、共に止めを刺されていたろうなぁ」
「それは………それならば、落ち延びた甲斐がありました」
「ふぉ、ふぉ…万事、報われたということかの」

 セオドールが表情を和らげた。彼はずっと気に病んでいたのだ。どちらがより長く生きるべきか、何をするべきか理知的に…冷酷に判断を下した自分に。

「その後は…実は、番人たる私は非常用の転送装置を携帯していてな。それを作動させ館まで戻り…再び力尽きたのじゃ」
「そうだったのですね…」
「一人用故に明かせなんだ…すまぬの。そして、襲撃を受けた際、クリスタルは緊急事態として皆を眠りから覚ます措置を取っていたようじゃ」
「成程…よく分かりました。本当に、全てが上手くいったのですね」

 フースーヤが無言でうなずき、脱力して大きく息をついた。セオドールとディーナの顔色が曇る。

「申し訳ない、長話が過ぎました」
「なんの、これしきのこと。おぬしが無事で、家族まで連れてきてくれたことを本当に嬉しく思うよ…セオドール」
「!」
「いくらでもいてくれて構わぬ…が、それが終われば帰りなさい。おぬしたちのふるさとへ」
「はい…!」
「ディーナ殿。我が弟に似たか、彼は己で決めたものに対して少々融通の利かぬところがあるようじゃ…伴侶のそなたが導いてやって下され」
「えぇ…もちろん、お任せ下さい」

 三人で顔を見合わせ笑う。
 そうして会話が落ち着き、ディーナが真っ白の陶器のような水差しから全員分の二杯目を注いだ。中の水が全く冷めていないことに驚き、これで何度目のことだろうと月の技術力に感嘆する。
 往路の魔導船の中で、セオドールに月には何も無く退屈だと脅されていた彼女だったが、実際は独りで生きてきたこれまでの十数年間分まとめて心動かされたのではないかと思う程の刺激的な毎日だった。

*

 月の空は常に漆黒の夜で、太陽という存在が無い。ディーナは窓の前に立ちながら、月の館がこんなにも自ら必死に輝くのは日の光を浴びることが出来ないからだろうか、とぼんやり考えていた。
 懐中時計を開けば十時を回ったところ。しかし困ったことに、午前なのか午後なのかが分からない。じき就寝するから夜なのだろう、と判断するしかない。
 窓にセオドールが近づく姿が映る。彼女の表情は明るくなり、振り返って横に並んだ彼の腕を取った。

「どうした?」
「いえ、特には」
「そうか?」

 彼女の頬を撫で、しばらく戯れてから再び聞く。

「館に着いてからずいぶん積極的だな。慣れぬか?」
「あ…えっと、その…」

 言葉を探して視線を彷徨わせ。返事を待つ彼を見上げてから、指摘通り、ディーナは自ら懐に潜り込む。

「……ここはずっと夜で…静まり返っていて…あなた様がいらっしゃらないと心細いです。申し訳ございません…」
「謝ることではない。ここは…この一つの星そのものが月の民のための寝室なのだ。寝室とは、このぐらい秘めやかであるものだろう?」

 こくりとディーナがうなずくのを見て、彼は抱擁の力を少し強めた。

「同胞たちは気の遠くなるような時間を眠り続け、ようやくこれから夜明けが始まろうとしているのだ。我らの訪問は不躾なものかもしれぬが、仕方のないことだな」
「はい」

 相槌は先程より明るい声色。静寂への不安は解消されたようだった。
 より安心させてやろうと、セオドールが背を屈めて彼女に擦り寄る。笑い声が漏れた。

「明日は何をしようか」
「あっ、あの、フースーヤ様がお話しされた兎を見てみたいです」
「あぁ…そうだな、行ってみるか。心しておけ、騒々しいぞ」
「そ、そんなにですか…?」
「そう広くない巣にひしめき合い、皆好きなように歌っているからな」
「そうですか…ふふ、楽しみです」

 窓に背を向けた二人の歩みは遅く、まるで今日を終えることを惜しんでいるようだった。
 実際それで正解なのだろう。この月では一日の密度が青き星よりずっと薄い。まだ何かやり残しているのではと感じてしまう。
 それでも、例え日が昇ることはなくとも、明日は同じようにやって来る。だからこの歩みが止まることはない。
 そうして、ようやく彼らの影は扉の向こうへ消えていった。





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フリリクより、「毒虫と侍女シリーズ、月の家族(フースーヤ)に会う」でした。
リクエストありがとうございました。




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