おおつごもり

 今年を締めくくる最後の一日。新たな年を迎える準備で騒々しかった世界も今はひっそりと静まり、或いはその瞬間のために力を蓄えようとあえて沈黙し、独特の落ち着きのない空気を作り出していた。
 バロン国、国境に近いこの村では前者。外に出て祝い合うのは夜が明けてから。そういった古い慣習に従い、セオドールとディーナも暖炉の炎と二本の蝋燭の灯火のみを照明として、少し早めの乾杯を終わらせていた。
 ディーナは夫特製のスパイスを効かせたグリューワインがお気に召したらしい。彼の心配を余所に、あっという間に一杯飲み干し上機嫌に笑っている。

「んー…」
「大丈夫か?」
「ふわふわします…」
「そうか…まぁ気分が悪くないならよいが」

 と、ぼすりと脇腹に頭突きを食らわされる。セオドールがグラスの残りを腹に入れ、ディーナのマグカップと共にサイドテーブルへ置いた。

「セオドール様……うふふ」
(笑い上戸だろうか)

 片腕を上げ胸元へ招いてやれば、彼女が嬉しそうに潜り込んできた。セオドールが体勢を崩し、ほとんど横になった状態で彼女を上に乗せる。一等こだわって選んだこの大きなソファでの、彼が最も気に入るひと時。今夜は"胸が詰まって苦しい"と言い訳されることも、それを口実に早々に逃げられることもなさそうだった。

「寒くないか?」
「はい」

 ディーナは熱心に頬ずりを繰り返している。その度に頭を撫でられ、ほのかに甘い吐息を漏らす。何せ、普段は努めて耐えているが、今はそれを強要する思考が酒で流されてしまっているのだ。その分かりやすい反応に、セオドールもさらに気分を良くして戯れを繰り返すのだった。

「……セオドール様」
「あぁ」
「私、幸せです…隣にあなた様がいらっしゃって…こんなにも暖かくて……幸せすぎて、どうかなってしまいそう……」

 不意に蕩けた声でゆったりと囁かれ、彼の身に一瞬力が入った。

「それはこちらの台詞だ、ディーナ。これまで歩んだ血濡れた道こそが…幻ではないかとすら、思える程に」
「……うふふ」
(ん?)

 これまた酔って蕩けた眼差しで彼女が見上げてくる。胸元に耳を当て上目遣いになり、もう少し一人でくすくす面白がってから言う。

「セオドール様ったら…幻なんて、そんなの駄目ですよ。幻だったら、今こうしてあなた様をお慕いする私はいませんもの…」
「そうか…お前は強いな」
「いいえ…今が幸せでなければ…こんな風には…思えません……」

 すう、と一息。ディーナの頭が沈む。セオドールは己の髪をかき混ぜ、肺の空気を全てはき出し。

(…すっかり涙腺の緩さが伝染ってしまった)

 たまらなくなって、温もりを一層かき抱いた。
 かちん。時計の針がまた一つ進んでいた。真上で重なるまで、あともう数回。起こすべきか、それともこのまま夢の中にいさせてやるべきか、頭を撫でる手を再開しながら彼は静かに悩む。
 ほとんどうつ伏せになり、すやすやと寝息を立てるディーナの表情は安心しきったものだった。再会を果たしたばかりの頃は、あの夜のように再び置き去りにされてしまうことを恐れ、眉を強張らせ隣の気配に縋るように固まっていた。だからこそ、明らかに安穏なこの眠りを妨げるのが憚られる。

(…まぁ、だが…今宵はな)
「ディーナ…ディーナ」

 ぽふぽふと出来る限りの軽い力で背を叩き何度か呼びかけると、そのうち彼女がはっと両目を見開いて顔を上げた。

「っ…すみません、眠っていましたか…」

 すると次は髪に絡まる太い指が首の後ろ側を這い後頭部を包み込んできて、溜めていた息が思わず鼻から抜ける。

「あのっ…!?」
「先程の続きだが?」
「もう、そんなことしてませんでしょう…」
「分かった分かった、睨んでくれるな。ほら…じき年が変わるぞ」

 セオドールの言葉を聞き、ディーナはあっと声を上げ、急いで彼と同じ方向へと振り向いた。
 秒針の音が特別響くのは、きっと錯覚ではないだろう。そんなことを考えて、二人は共に壁の時計を見守る。意識外に、互いを抱く力を強めながら。
 かちん。低い特徴的な鐘が一回。ディーナにも、そしてセオドールにも、微笑みが浮かんだ。

「新しい一年の始まりですね」
「あぁ、今年もよろしく頼むぞ」
「はい、こちらこそ。……セオドール様」
「何だ?」
「これからも…ずうっと、お側にいさせて下さいね…」
「フ…無論、いいですとも」
「あら…何ですか、それ…ふふ…」
「変なことを言ったか?」
「いいえ、でも…何だか、おかしくって……すみません」

 困ったように、そして愛おしそうに笑うディーナの姿に、セオドールの頬が再び緩む。今年もきっと、幸福な一年になるに違いないと、確かに思う。
 罪から逃げるつもりはない。ただ、彼が居なくなれば泣いてくれる存在が何人もいると知った。そして目の前の彼女は彼と引き離されてしまえば永遠に瞳を陰らせてしまうだろう。
 人が一生のうち救える人というのは、精々片手で数えられるだけと誰かは言った。そして、見付けることが出来ただけですでに奇跡だとも。
 苦しみを越えて掴んだ奇跡を彼はそっと日常へ埋める。いつでも見つめていられるように、いつまでも忘れないように。
 ぐいと彼女の背中を押し上げ、彼は黙ったまま視線だけで告げる。同じく黙ったまま彼女も了承し、そっと両手を顎に添えた。

「…あぁ…少し待ってくれ」
「?」
「蝋燭が灯ったままだ」
「あ…本当ですね…では」

 同時にそれぞれ息を吹きかけ炎を消す。そして二つの影がしばらく動きを止め、それから一つに重なった。






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