或る夜

 ふ、とディーナの意識は浮上する。薄暗い寝室、天井。経験で分かる。夜明けはまだ遠い。
 何度かゆっくりとまばたきをして、響かないよう、これもゆっくりと息をはき出した。首を傾け、枕に片頬を押しつける。

(また…起きてしまった)

 体に力は入らず、悔しさだけが込み上げてくる。頭の中はぼんやりと霞がかっていて、しかし、文字のようなものが言葉にならないまま渦巻いている。夜の静けさが、彼女すら上手く認識出来ない騒音に上塗りされていく。
 ディーナはしばらく瞳を閉じていたが、やがて諦め気だるげに身を起こした。脳と肉体の相違から来る疲労感より胸をよぎる不安の方が勝っていた。思わず己をぎゅうと抱いてうつむく。
 そうしてじっと動きを止めていたが、程なく自分以外の音に気づき、顔を上げた。
 一定に繰り返される寝息。それだけでも誰のものであるか分かる。

(あぁ…セオドール様…)

 部屋の広さとベッドの数が釣り合わず、彼は少々不自然に中央に陣取っていた。寝顔が視界に入り、ディーナの緊張がほっと解けた。
 彼と暮らし始めて数週間。最初は一つのベッドを共有していたが、不眠症気味のディーナの体調を巡って一悶着あり、解決策としてもう一つを追加し別々に眠ることになった。相手を気遣うあまり不要な負担を抱えてしまっていた二人だったが、こうしてほんの少しの間を空けることで頭も冷え、落ち着いて物事に向き合えるようになった。
 セオドールを見つめるディーナの瞳はかすかに揺らめいている。迷っているのだ。そばまで近づきたい思いと、迷惑をかける訳にはいかないという思いの狭間で。
 長く迷ってから、彼女はそっと立ち上がった。向かいのベッドをわずかに軋ませ、慎重に腰を下ろす。夜の静けさに押し潰されるのは、もう。シーツの中に両手を潜り込ませ、彼の温もりを縋った。
 探り当てた左手。とたんに頭の中の騒音が失せ、じんと胸が満たされ喉奥が詰まった。彼の手は望んだ熱量よりずっと熱く、冷えた体に染み渡って、悩ましげとすら形容出来そうな吐息が漏れた。
 自然と唇が弧を描き、控えめに重ねた指に力を入れた。すると彼の手がおもむろに蠢き、はっきりと意思を持ってディーナの両手をまとめて握った。

「!」

 驚いて確認すれば、セオドールが瞼を開き彼女を見上げていた。彼女はさらに動揺して離れようとするが、繋がれた手がそれを許さない。

「…眠れぬか?」

 彼が首を傾け言う。ためらってから、ディーナは遠慮気味にうなずいた。
 数度小さくうなずき返し、彼が繋がりを解いてもぞりと動く。
 奥へ詰め、シーツをめくり、ディーナを見つめて。

「来るか?」
「………はい」

 再び胸は満たされ、震えたようにも聞こえる声で返事する。セオドールの隣へ潜り込み、もう慣れた、しかし久々の温もりに寄り添った。回された腕に促され、頬を押し当てる程に近づく。伝わる体温が全身を覆う氷を溶かしていくと強く実感し、ディーナは嬉しそうに身じろいだ。

「セオドール様…」
「ん?」
「ありがとうございます」
「礼に及ぶようなことはしておらぬ」
「ふふ…はい」

 頭を撫でられ、彼女から力みが取り除かれていく。それを知ったセオドールは大きな手の平を背へと滑らせ、安心させるように幾度もさすってやった。
 身を委ねながら彼女は目を伏せ考える。

(そうだわ…私はずっと見ていたかった…旅立ってしまった船と同じ形をしたあの月を…。けれど、もうそんなことをする必要はどこにもない…セオドール様は…こうして私の隣にいらっしゃるんだもの……)

 夜は悲しみをもたらすものではなくなったと、理解と同時に体が重くなった。ディーナは顎を上げ、紫の瞳に向かって笑いかけてから、目の前の闇を受け入れ彼と共に美しい夢の中へと帰っていった。






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