4.
彼は本当にひと月前に会った男と同一人物なのか。
そう疑わずにいられない程、目の前の料理人からは活力が失われていた。
「命令通りに…何も問題ありません…」
「し、しかし明らかに味がおかしいんですよ?あなたも食べれば分かりますから…!」
「問題ありません…」
(…駄目だわ…この人、どこかおかしくなっている…!)
「……分かりました。失礼します」
ディーナが厨房から出ていく。ゴルベーザの食事担当者は他にもいるが、きっと皆同じような状態なのだろう。
(どうしてもっと早く気づけなかったの…!)
ゴルベーザ本人の口から、食事について専属の料理人がいると聞かされていた。その時彼女は配属されたばかりだったため、信頼を得るまで自分が関われないのは当然だろうと納得して、それでそのまま。
(侍女失格だわ…!とにかく、謝りに行かないと…)
城内を歩きながら、周りの人間を改めて観察する。料理人のように、顔色が悪く虚ろな様子の者はいない。ただ、誰も彼もどこかしら異常なのではないかと考えてしまい、背筋がじわりと冷たくなった。
*
ゴルベーザはかつて、食事の姿を他人に一切見せなかった。配膳に来たディーナを外で待たせ、誰も通さないよう強く命じていた。
恐ろしく用心深い彼は、自分の侍女すら未だに気安く自室に入れさせない。自身が居る間、部屋は彼独りきり。侍女にさせるべき身支度も、全て自ら行った。
口にするものは、彼が信頼した…すなわち、意識を奪い、思考を己の望む通りに染め上げた者に作らせた。彼の魔力を以ってすれば、他人を操る禁術もほぼ完璧に使役することが出来た。
「……」
執務室の隅に腰掛け、ゴルベーザは水の入ったグラスを傾ける。当然味はせず、それで彼は不意にディーナの淹れた紅茶を思い出す。
彼女を配下に置いて半月経った頃だったか。ある時、食器を下げる彼女が"温かい紅茶はいかがですか?"とゴルベーザに声を掛けた。それまで飲み物も食事同様、洗脳した料理人に用意させた水だけを摂っていたが、彼女にも似た術を施していたことを思い出し、試しに淹れさせた。
以降、ディーナは食事中も横に控えることを許され、ゴルベーザは水と彼女の紅茶のふたつを飲むようになった。
(強い女だ。術は効いているようだが、自我や意識が薄れる様子は無い)
洗脳が深まるごとに人間らしい感情は失われ、結果料理の味は落ちた。しかし、不思議とディーナの紅茶は反対に美味くなっていくのだ。
(有能故同僚に妬まれたと聞くが…成程、引く手数多だったという訳か)
そこまで思考を巡らせたところで扉の向こうに気配を感じた。ゴルベーザがグラスの水を飲み干す。
こんこん。
「誰だ」
「ディーナです」
「呼んでおらぬぞ」
「申し訳ございません…。その、お詫びに参りました」
「…入れ」
うつむいたままのディーナが部屋に踏み入った。ゴルベーザは腕を組み、彼女の言葉を頭の中で反芻する。
「思い当たる節も無いが?」
「昨日の茶菓子の件です。味があれだけ落ちていることに気づかずお出ししてしまい…ご不快な思いをさせてしまったのは私の責任です」
「……」
彼が腕組みを解いた。何か思案するように顔を窓へと向ける。ディーナの心拍数は上がり、腹の前へ添えられた両手は緊張で震えた。怒らせてしまったことがただ申し訳なかった。
「担当の者は解雇しておく。…ここへ」
床を指差したゴルベーザに従い、ディーナがそこへ膝を折って項垂れた。きっとまた、あれをされるのだろう。彼女の体は硬くなった。
ぬ、と巨大な手が伸び、ディーナの顎を固定する。彼女は観念して伏せた目を開き、ゴルベーザの鋭いそれを覗いた。
何度も視線を交わしているはずなのに、彼の両目の色をはっきり覚えられない。じっと見つめていると、指先の感覚が失われ、質量を持った何かに足首を押さえつけられたような、そんな錯覚に襲われる。
ゴルベーザが腰を折り、ディーナの左耳に顔を寄せた。髪が頬や首筋に触れ、彼女の肩がきゅっとすぼまる。
声色に魔力を乗せて。己への疑いを封じるため。精神深くに行き渡るよう。
「ディーナ、これからはお前が私の食事を作るのだ」
「っ…!」
吐息と押し殺すような低音に、ディーナの全身は震え上がった。耳から入った彼の言葉で肉体の内側がびりびりと痺れていく。
(ど、ど、どうしてわざわざこうやってお命じになるの…!?)
「か、かしこまりました…ご主じ……え?」
固く閉じられていた彼女の瞳がぱっと開いた。
「あっ、あの、ご主人様!」
「…何だ」
「…その…私などの卑しい腕では、ご主人様にご満足いただけるか…」
「ほう」
ゴルベーザの声が一段と低くなった。顔を離し、ディーナを見下ろす。青ざめた状態で、器用に両頬だけ赤らめた表情が滑稽で、自然と喉を鳴らしていた。
「お前はあれ以上の不味い料理を出すと言うか。なかなか大胆な発言だな」
「え…あ…!」
彼女が今度こそ蒼白になる。
「期待するとしよう。今日はもう下がってよい。あぁ…その前にそこの書面を近衛兵長に届けておけ」
「か、かしこまりました…」
何とか立ち上がってゴルベーザを見送り、扉が閉まる音を聞き届けてから、ディーナはへなへなとその場へ屈み込んだ。両手を床につき、しかし体を支えきれなかったようで、肘を折ってほとんど伏せた体勢になってしまった。
(もう限界…心臓がもたない…!)
あんな至近距離から艶のある低音を吹き込まれ、腰の砕けない女がいるだろうか。体中を走った悪寒によく似た衝撃がよみがえり、ディーナは大きなため息をついた。
(からかっていらっしゃるのかしら…分からないわ…。あぁ、でも、嬉しい…)
掃除、配膳から始まり、茶の用意を任され、横で控える時間が増えた。そして次は食事。
ゴルベーザが少しずつ彼女を認め、近しいところに置こうとしている変化を実感し、ディーナの胸は確かに熱くなった。
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