駆け引きは程々に

「ディーナ、少し時間をくれ。渡したいものがある」
「はい、何でしょう?」

 手を引かれたディーナがソファに腰を下ろした。セオドールが自室へ向かうのを見送り、今日の機嫌の良さの理由に思い至る。隣町から戻り、依頼された食材を取り出した彼は、どこか浮ついた表情をしていた。

(本当にまめなお方)

 毎度、何かしらの手土産を用意してくれるのだ。多くは村で手に入りにくい日用品や小洒落た菓子なのだが、時々驚くものを持って帰ってくる。
 前回の珍品は、凶事から身を守ってくれるという不思議な色の液体が入った小瓶だった。行き倒れた旅人や戦死者の弔いにも使うと聞いて若干顔が引きつってしまったことを思い出し、一人笑う。
 そうこうするうちにセオドールが戻ってきた。手の中にはこれまた小瓶。ただし、先の液体とは違い、観賞用として目も楽しませるような、女性的な意匠を散りばめた造形だった。香りものの容器だと、ディーナはすぐに連想する。

「まぁ、とても綺麗…」

 隣に座り、彼の太い指が蓋部分を摘んだ。かちゃりと硝子の音を立て、蓋はサイドテーブルの上へ。ディーナが近づいてすんと鼻を鳴らす。
 甘い甘い、異国の花。それから、柑橘類の果実も混じっているだろうか。重量のある濃厚な香りに彼女は思わずため息をついた。確か、覚えはあるが、何という名の花だったか。男性である彼が選んだとしたら、非常に意外である。それだけ個性的な香りだった。

「セオドール様、これは…?」
「あぁ、裏路地を探索していたら香油屋を見つけてな」
「えっ」

 中身が確定し、ディーナが声を上げる。

「本当はお前が昔使っていたものを探すつもりだったが、店主と話し込むうちにこれを勧められたのだ」
「そうでしたか…。あの、その…お高かったでしょう?」
「ん?あぁそうだな、多少驚いたぞ。だが、たまには贅沢も必要だろう。さぁ手を出せ」
「あ、ありがとうございます」

 黄金色の油がとろりと落ち、セオドールの手の平で温められ、ディーナのそれを包んだ。いよいよむせ返らんばかりに部屋に充満していく甘い香り。いつかの記憶が呼び覚まされ、当時の初心な感情がどこかから湧き上がってくる。

「…懐かしいな」
「はい…とても大切な一時でした」
「お前もそう思ってくれていたか」
「もちろんです」
「このような…動きだったか」
「はい、お上手ですよ」

 全体をまんべんなく押し、指を一本ずつ握って老廃物を流すように力を込める。それで巡りが良くなったのか、ディーナの全身は暖まり、鼓動と合わさってひどく恥じらう思いになった。
 爪の生え際に油を塗り込まれたところで、彼女はようやく己の変化に気づく。

(え…えっ?)

 ぞくんと、耳裏の皮膚がざわめいた。

「っ」
「痛かったか、すまぬ」
「い、いえ…」

 ただでさえ控えめだったセオドールの力がさらに弱まり、ディーナは焦った。
 種類の異なる心地良さが生まれているのだ。遠慮気味になった温もりが、まるで煽っているかのように錯覚してしまう。
 戸惑うディーナの鼻腔に、またしても非日常が侵入する。それは脳から繋がる神経を絡め取り、緊張する心に反して体はくたりとソファの肘掛けにしなだれていた。
 そうしてやっと思い出す。花の名と、その効用を。そしてますますどう振る舞うべきか判断がつかなくなってしまう。

(…快眠と……催淫効果…)

 あぁ、彼はどちらのつもりでこんなに優しく触れてくれるのだろうか。
 這い回る温もりをいちいち敏感に拾い上げる五感を恨みながら、ディーナは空いた手を口元に添えて懸命に視線を逸らしていた。
 そのような意識外に扇情的になった妻の姿を、セオドールはちらと盗み見る。

「…さぁ、次は足だな」
「あの、け、けっこうです…床にお下りになるなんて、いけませんわ」
「なに、お前がこのまま横になればよいだけの話だ」

 背で挟んでいたクッションを抜き、セオドールはそれをディーナ側の肘掛けに置いた。軽く肩を押しやれば、観念したのか、抵抗なくソファの上へ沈んでいった。いくらか横にずれ、腿の上に彼女の足首を乗せた。
 靴下を脱がせれば、白い素肌が現れる。膝頭まで届いていない、その程度の露出である。だが、言い様の無い色香があった。
 再び互いに黙り込み、もはやこれは何の時間なのか説明出来ない有様となっていた。ディーナは彼の体温が移ったクッションに年甲斐のない胸の高鳴りを覚え、すがるように肩を寄せて頬を押しつけている。セオドールはそんな彼女に魅入り、最初の目的は頭から抜け落ち手管を見せつけようと躍起になっている。
 彼女はもう、この駆け引きに乗ってもいいと思っている。
 だから、五本の指をまとめて責められて、ついに声を上げてしまった。

「あっん」

 そのままやわやわと握られれば、明確な悪寒が体を駆け、腰が浮いた。
 期待通りの反応を見せた彼女に、セオドールはどこか嬉しそうに追い打ちをかける。

「ずいぶんと感じ入っているな」
「っ……あ、あなた様がそのようにお触りになるからですっ」
「お前が先に反応したのだろう?私は初めはやましい気持ちなど無かったぞ」
「う…それは…そんな香油をお使いになるから…!」

 はた、とここで彼の動きが止まる。

「香油?お前の使っていたものと何か違うのか?」
「………あぁ…もう……」

 どこか予想もしていた返答に、分かりやすい大きなため息。口元の手を額にやって天井を仰いだ。

(やっぱり、ご存知なかったのね…)
「ディーナ?」
「ん…説明しますから、一旦お離しになって…」

 再びふうと息をつく。起き上がる気力も振り絞れそうにない。
 今さら恥じたり遠慮する訳にもいかないだろう。そう考え、ディーナは努めて淡々と伝えた。

「この香油は…まぁ、厳密な調合は違うのでしょうけれども…女性が殿方に臨む際に密かにつけるもの、と言われることもありますわ」
「…む………あぁ、そ、そうか、そういうことか…」

 言葉に込められた多くの情報を理解したセオドールは途端にうろたえ出す。

「わ、私はただ、店主に"嫁に使うならこれだ"と言われて…」

 そして二人同時に考える。生憎だが、余計な世話だと。

「ディーナ…弄んですまなかった」
「いいえ、私も、えっと、他にも効果はありますのに…その」

 最後まで言い切れず、ディーナが顔を横に倒してうつむいてしまった。どうにも気まずい空気。特にセオドールは、彼女に恥をかかせてしまったと憂い、何とか気遣いの言葉を探そうと目を泳がせ苦心しているのがよく分かった。
 そんな彼を上目遣いで見やり、彼女の唇がかすかに動く。この一悶着に後悔はないと思えた。

「セオドール様」
「あ、あぁ」

 彼の袖口をくんと引いて。甘い特別な香りにもう少しだけ酔って。

「責任…取っていただけますか?」
「!」

 威厳に満ち、落ち着き払った表情を作る前の、眉間の皺が消えて揺れる瞳を見開くその一瞬が。彼女しか知り得ない、焦がれた眼差しが好きでたまらなくて。何度だって見たいと願いながら。

「喜んで」

 もっともっと望んだ口づけが降りてくるのを待って、ディーナはそっと瞳を閉じた。






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