夢はうつつに

「ディーナ、聞きたいことがあるのだが、よいか?」

 そう言いながら、セオドールが彼女の仕事部屋へ足を踏み入れる。しかし直後、思わず後ずさるように一歩引いた。
 目的の彼女は作業机に突っ伏し、小さく寝息を立てていた。目の前には様々な色に染まった糸束が散らばっており、また手から滑り落ちたであろう鉛筆が一本転がっている。
 セオドールはゆっくりと近づき、肩をわずかに揺さぶった。

「ディーナ…横になった方が良いぞ」
「……」
(起きぬか)

 腕の隙間から覗く瞳は閉じたままだ。それを見やった彼の目尻が下がった。

「寝室へ行くぞ」

 一応断りを入れてから、セオドールが彼女の上半身を起こし、腕に乗せる。腰を曲げ、椅子の下の膝裏を探し当て、しっかり固定してから一気に持ち上げた。
 きちんと支えられていることを確かめ、ベッドまで運ぶ。降ろそうとしたところでディーナがかすかに声を上げた。

「…ん……」

 それに気づき、横たわらせてから、セオドールは柔らかな頬にそっと手の甲を当てて撫でた。彼女の睫毛が震える。
 薄く開く両目。一度まばたき、夫の存在を認めた最初の表情。それは謝罪の言葉よりも羞恥の態度よりも早く、心から安堵して息をつく瞬間であり、彼の胸を喜びで満たすものだった。

「おはよう。気分はどうだ?」
「…私…どのぐらい…」
「一時間もないと思うぞ」
「そうですか……んっ、セオドール様」

 四本の指に頬をくすぐられてディーナが身じろいだ。まだ思うように力が入らないことを彼は知っているのだ。

「もう、これ以上はいけませんよ…」
「そうか。…起きるか?」
「はい」

 腕を引いてやった後、彼女が大きく伸びた。髪を整えながら、ふと口を開く。

「そういえば、夢を見ましたわ」
「どのような内容だ」
「おそらく水の中か何かだと思うのですが…あなた様と手を繋ぎながら、辺り一面がきらきらと瞬く空間を二人で漂っていました」
「ふむ」
「魚はあのような感覚で泳いでいるのかもしれませんね」

 くすりと一つ笑い、ディーナは会釈をして寝室から出ていった。残されたセオドールは顎に指を添え、しばらく沈黙。その後、元々の用事をようやく思い出して、彼女を追った。

*

 とっぷりと日は暮れ、皿を洗い終えたディーナは台所の小窓から空の様子を覗いていた。

(綺麗な星空…明日も晴れね)
「ディーナ、どこだ?」
「あ、はい、こちらに」

 エプロンを外し、所定の位置に掛ける間にセオドールが彼女を見つけて歩んでくる。手には彼女の普段使いの肩掛け。

「まだ休まなくても平気か?」
「えぇ」
「では…今宵は星がよく出ている。少し、外で眺めぬか」
「はい、喜んで」

 受け取った肩掛けを羽織り、二人並んで裏口から屋外へ。暦は新月。特別星の光が世界へ降り注ぐ夜である。
 ディーナはその美しさに声を上げ、隣のセオドールを見上げて言った。

「やはり星を見るのは新月が一番ですね。……ようやくこの夜に空を見上げることが出来ました」
「そうか…」
「…占いで星の動きを使うものがあるそうですが、魔法にも似たものがございますか?」
「どうだろうか……あぁ、いや……あったな」
「あら、やっぱり。どちらも神秘的なものですから、共通点も多いのですね」
「そうだな。星の動きは天文学という学問の応用だが、占いそのものは魔術の一部と言ってよいだろう。…さて」

 話の区切りをつけ、セオドールがディーナの正面へと回り、両手を取る。

「試したいことがあるのだ。力を抜いていてくれ」
「えっと、こうでしょうか」
「浮くぞ」
「え、浮く?…あっ」

 水中に体を沈めた感覚と似た浮遊感。ディーナの踵はひとりでに地面から離れていき、いつの間にか目線が彼と同じところまで上がっていた。重力から放たれた肩掛けがふわりと膨らみ、彼はそれを摘みながら害は無いと微笑む。

「ほ、本当に浮いています…!」
「ふむ、人一人ぐらいは全く問題ないな」

 呟いてから、軽く地面を踏みつけ上方向への力を加えた。二人がゆっくりと空に向かって昇っていく。その間に距離を縮め、彼が頼りなく漂うディーナを両腕で囲い込む。
 彼女は縋るように目の前の布地を握りしめたが、その瞳は驚きと好奇心でこの夜空に負けじと輝いていた。

「すごいです…こんな…空を飛べるなんて!」
「気に入ったか?」
「はい…!あ、見て下さい、セオドール様…星があんなに近くに…」

 ディーナが真上に広がる煌めきに手を伸ばす。セオドールが背を少し傾け空を蹴ると、その力に従ってついと滑り出す。
 舵を彼に任せ、彼女はうっとりと魅入って囁いた。

「あぁ綺麗…まるで、夢のよう…」

 そこではたと気づき、後ろのセオドールへ振り向く。彼は早速看破されてしまったことにはにかみ、視線を彷徨わせている。ディーナは唇の弧を深くして、体を反転させて向かい合った。

「私の夢の内容を聞いて思いついて下さったのですか?」
「…お前と同じ体験をしたいと思ったのだ」

 それ以上は言葉を交わさず、微笑んで再び背を見せた彼女を後ろから抱きしめた。
 夜空に無数に敷き詰められた星々。数えれば数えるだけ際限無く増える儚い灯火。
 あの中のどれか一粒が、かつて自分が眠っていたもう一つの月なのだろうか。セオドールはぼんやりと考える。
 そのたった一粒を目指す旅。そろそろ、切り出しても良いのかもしれない。
 もうしばし煌めきを楽しんでから、彼は合図代わりにディーナを支え直し、なめらかな動きで地面へと降りていった。両足を踏みしめ、重力の戻った体を見渡し、ディーナは興奮冷めやらぬ声で言う。

「とても素敵な一時でした。ありがとうございます、セオドール様…!」
「うむ、喜んでもらえたのなら良かった。さぁ、冷やさぬうちに戻ろう」
「はい。では、戻ったらミルクを温めましょうか。今夜はよく眠れそう…」

 上機嫌に笑うディーナを優しく見つめ、肩を並べる位置に立つ。彼女が腕を絡めたことを確認して、おぼろげに照らされる草を踏みしめながら、彼らは我が家へ帰っていった。






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