夜半

 周りから見れば順調そのものの暮らしぶりである彼らだったが、その実一つの問題を抱えていた。正確には、危惧するのは夫のセオドールであり、彼にとっての悩みの種が妻のディーナにあった。
 彼女は疲労が溜まりやすいと注意を受けているにも関わらず、夜遅くまで働き、ベッドに入ることを嫌がるようになっていた。いくらセオドールが呼びかけても決まって仕事の納期を出し、彼の居ない昼間に休んでいると言う。そのような主張を受け入れられるはずもなく、毎夜の会話は口論に近いところまで至る状態だった。

「ディーナ、私はもう休むぞ。お前も来い」
「いえ、まだきりの良いところまで進んでおりませんから…先にお休み下さい」
「そう言ってもう一度呼ぶまでいつまでも続けるのは誰だ?お前ともあろう者が、何故ここまで仕事を溜め込む?」
「……納期が…ありますので」
「それ程までに厳しいのか?異常だとは思わんのか?」
「……」

 かたん。織機が一つ頼りない音を立てる。沈黙。
 手を休めない頑ななディーナの態度は、もはや何事かに対する反発のように思えていた。仕事部屋の入り口に佇むセオドールが彼女に聞こえるよう、大きくため息をついた。

「何度このやり取りを繰り返すつもりだ?私が折れて認めるまでか?」
「…それは…」
「こうして就寝の時間が遅れていくから眠りが浅くなり、目を覚ましてしまうのではないか?」
「…!!」

 がたん。
 手元が狂い、織機が大きく揺れた。彼女が緩慢な動きで顔だけ振り返る。その目元には、必死に取り繕っても隠しきれない影。

「……ご存知…だったのですか…?」
「む?あぁ…動く気配があれば起きるが」
「も、申し訳ございません…!ずっと、ご迷惑を…!」
「ディーナ…?」
「今夜から私はここを使いますから、あなた様はどうぞお休み下さいませ!」
「!?」

 ついに飛び出た拒絶の言葉にセオドールが表情を変えた。思わずつかつかと歩み寄り、力任せに肩を引いて顔を上げさせる。それでも背けようときつく閉じる瞳からは、涙が今にも零れそうになっていた。

「ディーナ、お前が責任を感じるのは間違っている。野営が長かったために身に付いた習性なのだ。同時に睡眠も十分取れるようになっている」
「……」
「お前が不眠症を患っていることも知っているつもりだ。だから薬を処方し、改善されるよう努めているのではないか。今優先されるべきはお前だと何故分からない?何故、これ程までに私に気を遣うのだ…!?」

 矢継ぎ早に口が動く。認めるしかなかった、この苛立ちを。

「…お前にとっての私は、未だ奉仕すべき主なのか?」
「!!」

 認めて、後悔した。いや、正しくはこの台詞を選んでしまったことを。
 彼はすかさずディーナを抱き込んだ。

「すまぬ、悪かった。私はただ、お前の全てを分けてほしいだけなのだ…すまぬ…」
「…っ……うぅ…」
「ディーナ、愛している。お前は私の妻で、私はお前の夫だ…!」

 彼女の両手が回り、強く衣服を掴まれた。彼も何度もうなずきながら、震える頭を大きく撫でる。

「また違う方法も試そう。昼間が休めるというのなら、それで良い。私の方が焦っていたようだ…すまなかった」
「……」
「今宵はここに残るか?」

 長く間を空け、わずかに首を振った。

「ありがとう…。では、行こう」

 彼が動く。横抱きに持ち上げるとディーナが驚きの声を小さく上げる。気にせず寝室まで歩み、ベッドの上へそっと下ろした。
 布を取って頬を濡らす水滴を拭ってやると、彼女は疲れ切った面持ちで身を委ねてきた。額に唇を落とし、横にしてやる。隣へ寝そべれば、逃げるように背を向けられた。

「おやすみ」
「…おやすみ…なさいませ」

 落ちてしまいそうな程端に寄った小さな体をしばらく見つめ、せめて気配ぐらいは静めようと、セオドールは寝返りをうった。深い呼吸を繰り返したまま、薄暗い壁をじいと見つめ続ける。
 壁が本来の色を取り戻し、ディーナがごそりと物音を伴い部屋から立ち去るまで、その眼差しが遮られることはついに無かった。






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