3.

 ディーナがゴルベーザの侍女となりバロン城に入ってから、すでにひと月が経っていた。
 彼女の知らないうちに城はすっかり様変わりしていた。まず、活気が無い。城内の人間が明らかに減っていた。
 赤い翼の前部隊長と竜騎士団団長は、バロン王への謀反を企て処されたという。結果、指揮官が空席となった竜騎士団は一気に力を失った。また、使用人の多くが暇を出されたらしい。
 ディーナへの風当たりは本人が覚悟していた程強いものではなかった。というより、大半が関わることを極力避けているようだった。彼女を通し、ゴルベーザの機嫌を損ねることを恐れたのだろう。
 そういった人々の心情を早々に理解し、彼女も素直に現状を受け入れた。そもそも新しい環境に慣れることに精一杯で、他人に目を向ける余裕はほとんど作ることが出来なかった。

(始めは怖かったけれど…今はもうそんな風に思わないわ。だって、あのお方は理不尽にお怒りになったりしない…)

 軍議の間に主人の執務室を掃除しながら、ディーナはこのひと月を振り返っていた。
 慣れとは偉大なもので、ゴルベーザの高圧的な態度や鋭い眼光にすっかり耐性がついていた。"魔人"とあだ名される彼は、確かに支配者の無慈悲な風格を備えているが、同時に誰よりも聡明で冷静だった。
 彼は常に威圧感を放ち、兜で顔を遮り、それが取り払われても何事も受け入れないような厳しい表情を貼りつけている。そしてひどく無口だった。立場上言葉を発する機会は多いが、執務外の話題はほとんど無く、ただ押し黙って遠くを眺めている。
 あまりにも口出しをされないので、ディーナはこの一ヶ月間、主人の言動や反応を理解しようとひたすら気を張った生活を送る羽目になった。しかしその甲斐あって、ようやく彼は何かしらの相槌を見せるようになった。

(まだまだ心を開いて下さっていないけれど、それでも少しずつ成果は出ている。ここが頑張りどころだわ)

 書類や冊子の山を崩さないよう横へやり、机を拭いて元の場所へ戻す。床を丁寧に掃き、ごみ箱の中身を空にして、もう一度窓枠や家具に埃が残っていないか確認した。

「よし、と…それじゃあ…」

 視界の先は部屋の隅、窓の前に置かれた一組の机と椅子。ゴルベーザが休息を取る場所で、執務机で飲食することを好まないと気づいたディーナが用意したものだった。
 テーブルクロスを軽く整え、彼女は軽食の用意のため、部屋を後にした。

*

 こんこん。

「入れ」
「!」

 ノックに対し返事があって、ドアノブにかけようとしていたディーナの手が揺れた。本当に中に人がいるとは考えていなかった。

「失礼します。申し訳ございません、お待たせしてしまって…」
「こちらが早く終わっただけだ」

 ゴルベーザは休息用の椅子に座り、変わらず眉間に皺を寄せて頬杖をついていた。両目は外の景色へ向けられている。
 ディーナは静かにワゴンを押し、黙々と準備を進めた。机に茶菓子と紅茶のカップが並べられていく。紅茶は渋みのある茶葉を、出来るだけ熱いまま。
 それを一気に流し込み、ゴルベーザが一息ついた。外を眺めたまま、受け皿ごと自身の正面から指で押しやる。ディーナが受け取り、中身を足して戻した。
 紅茶のカップにしては大きい造りであるはずなのに、彼の手に収まると途端に小さく見える。これが今の主人なのか、とディーナはぼんやり思いながら、その無骨な手の甲を見つめていた。
 ゴルベーザ。精鋭部隊、赤い翼の部隊長。今は亡き前部隊長に代わって王に重用され、他の軍団をも支配下に置いているという。逆らう者は容赦なく罰し、命を奪うことすら躊躇わない。果てには、長く続いた世界の均衡を崩し、他国への侵略、弾圧を進めている。
 ディーナは政や軍について全く知識は無かったが、それでも今のバロンは内部から反発が上がる程異常な状態であると理解していた。彼女の耳にゴルベーザと彼に仕える彼女を罵る声が届いたこともあった。
 しかし、ディーナは彼を嫌悪していない。彼女にとって"魔人"とは、"自分を拾い上げ、真っ当に扱ってくれる主人"に他ならなかった。

(良心が痛まないと言ったら嘘になる。でも、私はそんなに綺麗な人間じゃないわ…。このひと月、任される仕事が少しずつ増えていって、とても充実していた。私はこれからもずっとご主人様にお仕えしていたい…)

 がちゃ、と鎧が立てた音でディーナが我に返る。ゴルベーザが頬杖を解き、室内に顔を戻していた。

「下げておけ」
「はい。…あら、お菓子はよろしかったのですか?」
「いらん。茶が不味くなる」
「え?」
「冗談だと思うならお前が食えばよい」

 外套をひるがえし、ゴルベーザは足早に去っていった。残されたディーナはぽかんと立ち尽くしている。
 ゴルベーザの最後の言葉こそが冗談のように取れたが、そのような発言をする人物とは思えない。彼女はしばらく悩み、部屋に誰もいないことを確認して焼き菓子をひとつ口に入れた。

「!?」

 それは、今自分が何を食べたのか分からなくなってしまう程、無機質で不気味なものだった。ディーナは時間をかけ何とか飲み込み、両手で口を押さえつけた。

(わ、私は…こんなものをご主人様にお出ししていたというの…!?一番初めに確認した時はこんな味じゃなかったのに…一体どういうこと…!?)

 軽くなったポット、中身の無いカップ、そして茶菓子が並んだ皿を乱暴に引き上げ、彼女は一目散に駆けていった。






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