空白を知る者

 翌朝。
 ディーナが目覚めると、その前には椅子に座り心配そうに視線を送るセオドールの姿があった。強い頭痛を自覚し、熱を出していることを知る。ため息と共に目頭が熱くなった。

「大丈夫か?気分はどうだ?」
「……申し訳ございません……」

 起き上がろうとしたディーナをセオドールが急いで制し、ベッドに縫い止める。

「顔色が良くない。休んでいろ」
「いいえ…大丈夫です…」
「馬鹿を言うな…!」

 ぐっと肩を押さえつければ、両目がみるみるうちに滲んでいく。それを隠すように彼女は顔を覆った。

「…申し訳ございません…!あなた様はすでに…約束を果たして下さったというのに…!」
「一日そこらで全てが解決するなど始めから考えておらぬ。自分を責めるな」
「…っ…」
「ディーナ、お前の傷が癒えるまで、私は何度だって誓う。お前の悲しみも、怒りも、涙も全て受け止める。だからお前は隠す必要も、気に病む必要もない…」

 空いた額に自分のものを合わせ、しばらく動きを止める。彼女は頑なに覆った両手を外そうとしなかった。

「…さぁ、水を飲んで、今日はゆっくり休め。私は何か食事を作ってこよう。それから、薬の類はあるか?」
「……台所の…棚に…」
「うむ」

 何度か頭を撫でてから、彼は身を起こした。言われた通りの場所から薬箱を見つけ、ひとまず机の上に出しておく。それから食材の選別に取りかかった。
 程なくして玄関の扉が音を立てる。気配を探れば、昨日から世話になっている村長のようだった。前まで歩み、驚かせないよう先に内側から声を掛けた。

「はい」
「あぁセオドールさん?あたしだよ」
「お待ち下さい…」

 対面した村長は何か品物を手に持っていた。挨拶を省き、彼女は早速切り出す。

「ディーナはどうしてるんだい?」
「それが、熱を出して伏せております」
「あぁやっぱりね…。いや、昨日の様子からそうなるんじゃないかと思ったんだよ。それから、お前さんと話がしたくてね。上がらせてもらうよ」
「は、はい…」

 中に入るや否や、村長は慣れきった動きで茶を入れる準備を始めた。セオドールが口を挟む隙すら与えない手際である。もはや、彼女はディーナの親と呼んで差し支えない間柄なのだろう。
 セオドールは小さくなって場が整うのを待った。その間に寝室に注意を向けたが、ディーナが起きてくることはなさそうだった。
 菓子まで並べ、茶を一口飲んだ村長が言った。

「さて、先にこれを渡しておこうかね。後で温めて食べさせておやり」
「ありがとうございます…助かります」
「あの子は昔っから身体が弱いからね…少しでも無理をするとすぐ調子を悪くするんだ」
「え…?」
「あぁ、お前さんも知ってることか」
「いえ、その、初耳です」
「何だって?」

 村長がセオドールを見やる。力無く目線を落としていた。

「私の元にいた頃は…そのようなことは一度も。……そうですか…」
「……」

 黙ったまま手元のラスクを口へ放り入れる。それを全て咀嚼してから再び話し出す。

「…生まれつきじゃないのなら、これから治るかもしれないってことだろう?」
「……」
「横になってもなかなか眠れないんだとさ」
「…はい」

 会話が切れた。しばらくの沈黙。

「…あなたはディーナをずっと見守って下さっていたのですね。感謝してもしきれません」
「そりゃあ、村と何の関係もない若い女が一人でやって来たら、村長としては捨て置けないさ。丁度嫁に行った末娘と入れ替わりだったから、余計にね」
「はい…」
「さ、次はお前さんの番だよ」

 セオドールがしばらく躊躇う。どこかでディーナの筋書きにぼろを出してしまわないか。しかし、かわせる雰囲気ではなかった。

「……彼女は…私の侍女でした」
「侍女…?使用人ってことかい?」
「はい、専属の。…それも話していないのですか?」
「そうだね、はっきりとは。その辺りだろうと予想出来たけどさ。立ち振る舞いも言葉遣いも洗練されている上に、家事まで完璧なんだ。となればね」
「見事だ…その通りです。彼女は元々優秀な城仕えでした」

 村長がラスクに手を伸ばしたのを見て倣った。懐かしい、ディーナの味だった。

「あの子は…お妾だったのかい?」
「いいえ。彼女以外にそういった関係の者は一切いません」
「ふうん」
「……私たちは…無論、本気でした。しかし、彼女は……私も…追放されました。私は…果てと呼べるところへ。そこでの務めは…私一人の都合で投げ出せるものではありませんでした…」
「……」
「務めを終え、幸運なことに、彼女とこの村の情報を得ることが出来ました。そして…すぐに彼女に会いに…」
「そうかい…」

 村長が二つの器に茶を足した。しばらく独り言のように唸る。

「うーん、まぁ、概ね考えてた通りだね。お前さんは気まぐれに作ったお妾を無かったことにして、優雅に暮らし続けていると思っていたけれど。そこは謝るよ」
「ありがとうございます」
「それもあってね、あたしはお前さんを忘れないディーナが不憫でならなかった。始めの頃、一度だけあの子に縁談を持ちかけたことがあったんだ。するとどうしたと思う?」

 彼女の問いに、セオドールは目線だけで分からないと告げた。

「あの子はその場で、本当に身一つで村を出ていこうとしたんだ。女だけじゃ止められなくて、男たちに荒っぽく取り押さえられてね…あの時の剣幕は忘れもしないよ…」
「…そうですか…」

 ふう、と二人でため息をつく。その後村長は残りの菓子も平らげ帰っていった。見送りを済ませたセオドールはポットの茶を全て注ぎ、遠い目になって今日までの自分を思い返す。
 ゼムスとの決戦のあの日、彼は月に留まることを選んだ。それが、数え切れない罪を犯したことに対しての償いだと思った。しかし、月が永い旅へ発つその時になって、初めて彼は己の選択が逃げであったことに気づく。
 何故このようなところにいるのだろう。何故ディーナの元へ帰らなかったのだろう。唯一引き止める言葉をはっきりと言ってくれた彼女を、愛していると抱きしめてくれた彼女を裏切って、何故こうしてのうのうと生きているのだろう。
 尽きぬ後悔から彼はさらに逃げ、悪夢の中で裁きを受け続けた。しかし、そこにディーナが現れることはついに無かった。だから目覚めている間、何度も何度も彼女を求め、姿すら無い幻に縋った。その顔を、声を、微笑みを、そして温もりを思い出せなくなることを何よりも恐れ、彼女の記憶を持つ間はまだ狂っていない、死んでいないと言い聞かせ続けた。
 青き星の危機という口実が無ければ、ここにいなかったのだろうか。答えは出したくなかった。だが、全ては過去に置くべきもの。そちらへ向いていた体を反転させ、未来を見据えたい。そして、未だ過去に囚われたディーナの手を取り、導く存在になりたい。そう願う。
 茶を飲み干し、食器を流し台へ運び、セオドールは中断していた調理作業を再開させた。






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