戯れ

 バロン国に短い夏が訪れていた。照りつける日光は力を増し、日陰や水周りであっても熱気が収まらない。金属の甲冑を身に着ける兵たちが一年で最も感情的になる時期であり、同時に街中がどこか開放的な空気となる。そういう季節だった。
 しかし、バロン軍の最高位将軍であるゴルベーザには、一切の影響を及ぼしていなかった。これまでと変わらず指の先まで漆黒の鎧で固め、兜で素顔を完全に遮断している。執務室は窓を開けて風を通しているが、その鎧の中まで至っているのだろうか。隅でじっと存在感を消して待機するディーナは、主人の身体に熱が篭ってしまわないかと、内心気が気でならなかった。
 彼は器用に書面を一枚ずつめくり、時折何かを書き込んで箱の中へ投げ入れている。その所作にも、広い背にも、夏の環境に対する不満が微塵も感じられない。彼よりずっと軽装であるディーナですら、首の後ろにわずかながらも汗を滲ませているというのに、ただひたすら静謐である。
 手の中の書類の選別を全て終え、ゴルベーザが顔を上げた。それを見計らって彼女が近づく。

「いつも通りのお渡しでよろしいでしょうか?」
「あぁ」
「かしこまりました。…今日は本当に茹だってしまいそうな暑さですね…後程冷たいタオルをお持ちしますわ」
「必要ない」
「あら…そうですか?恐れながら…過ごしづらくはございませんか?何でもご用命下さいね」
「気を遣わずともよい。この鎧は魔力を施している。故に暑さは感じておらぬ」
「魔力、ですか…?」

 ディーナはその言葉が腑に落ちないようで、首を傾ける。相変わらずゴルベーザを心配する眼差しだった。彼はしばし思案する。

「信じられんようだな」
「そういう訳ではございませんが…。魔力とは、魔法という力を使う源、で合っていますでしょうか?」
「あぁ」
「私のような使用人には想像もつかない事柄ですわ…」

 ほうとディーナがため息をつく。彼女は高等な知識を持ち合わせていないが、聡く、物事を理解する能力は十分高い。それがゴルベーザの評価であった。
 彼は自らの言葉を聞かせることも、逆に彼女から使用人としての薀蓄を聞き出すことも、密かな戯れの楽しみとしている。そして、今がその時だろう。

「よかろう、では教えてやる。私の横に立て」
「は、はい…失礼します」

 立ち上がったゴルベーザの元へディーナが歩みを進めた。常識を以って作られた距離を彼がさらに縮め、大きく腕を振り上げた。外套が同時にひるがえり、彼女の視界が陰った。

「!」

 彼女の全身は外套にすっぽりと包まれていた。驚いて隣の主人を見上げる。彼女の頭よりさらに上の位置で曲げられた腕、重厚な肩当て。それより先はもう確認することが出来ないが、しかし、だからこそ感じてしまう存在。
 もう少しだけ詰め寄れば触れてしまいそうな、そんなわずかな隙間。ディーナの頬にかっと赤みが差す。

(あ…?)

 火照りを覚えたその肌に、ひやりとした冷気が届き、ぶつかった。金属が発しているだけとは思えぬ確かな温度差だった。
 ディーナが疑問符を浮かべようとしたその前に、ゴルベーザが低く一言呟く。

「ブリザド」

 きいん、と耳鳴りと勘違いしてしまいそうな高音が部屋に響いた。瞬間、ディーナの背筋に一閃が走り、思わず身が固くなった。
 冷気が足元へ到達する。いや、違う。足元から這い登ってくる。外套の外に変化が起きたと知った。
 ぱきん。頭上で何かが砕けた。その欠片なのだろうか、ゴルベーザの鎧や外套に降り注ぎ、こつこつと小さな音をいくつも立てたのが分かった。それが収まってから、彼はディーナを解放する。呆けて両目を見開く表情が目に入った。

「……寒さを…感じます…」
「氷の魔法を軽く打った」
「これが、魔法…あっ」

 空中に浮かぶ透き通る塊を見つけ、ディーナが声を上げた。それは徐々に小さくなり、そっと消えてしまった。室温が戻っていく。彼女は嘆息し、改めてゴルベーザへ顔を向けた。

「魔力とは、身体の外側を巡る血液と表現されることもある。それを意のままに操り、あらゆる性質へと変化させるのが魔法の基礎だ」
「…ということは、先程あなた様のお召し物から感じた冷気は、元はあなた様の魔力なのですね」
「いかにも」

 三度目のため息。氷が形成される様を直接目にした訳ではないが、それでも主人が人智を超えた偉大な力を持つことを実感し、ただただ畏敬の念が込み上がる。

「あなた様のお力を拝見するなど…恐れ多いですわ…」
「そう畏まるな。魔力自体は誰もが持つ。大したものではない」
「えっ、で、では、私にもございますか?」
「ごく僅かだがな。生物に不可欠な要素ということだ」

 ゴルベーザが席についた。ディーナは両手を胸に当て、わずかに高鳴る鼓動を聞く。理屈では言い表せない現象を目の当たりにし、どこか気分が高揚していた。そして、自分にも備わっているという魔力に思いを馳せてみる。
 例えば、もしも。彼女は想像する。もしも、彼女にも素養があるとすれば。

「…ご主人様。変化、というのは…氷が可能であれば、炎も同様でしょうか?」
「無論」
「まぁ…では、魔道士様をとても羨ましく思います」
「何故だ?」
「えぇと、その…火をおこす手間を省けるということでしょう?その分、もっと別の仕事をこなせそうな気がします」

 ゴルベーザがはたと動きを止めた。ややしてから微かに肩を振るわせ始める。それは全身へと伝播し、彼はとうとう声を漏らしていた。

「クッ…ははは…!お前はこの私の術を飯炊きに使えと言うか!」
「えっ!?あっ、あ、い、いえ決してそのようなつもりでは!」

 ディーナから血の気が失せる。反対に、ゴルベーザはひどく上機嫌な素振りを見せた。これ程の笑い声を上げるのは久しいと思った。

「実にお前らしい言葉よ!くく…お前に力を与えてやれぬことを惜しく思うぞ…!」
「も、申し訳ございません…!」
「ふ、お前のせいで暑くなってしまったわ。さて、ディーナよ…氷の欠片すら作れぬお前は如何にして涼を取る?」

 ゴルベーザがディーナに視線をやった。兜の奥では愉快そうに唇が歪んでいるに違いない。それが透けて見えたように思えて、ディーナの心は不思議な音を立てた。
 侍女として、彼の期待に応えるのが自らの役目なのだ。

「お前の知恵を見せてみよ」
「はい、お任せ下さいませ!」

 ディーナは胸を張り、力強く返事した。





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もずくさんより頂きました、「毒虫と侍女、夏の話」でした。
リクエストありがとうございました。




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