32.

 ディーナが次に目を覚ました時、それまで身体を支配していた倦怠感は全て取り除かれていた。彼女はしばらく呆けたまま天井を眺めていたが、やがてゆっくり起き上がる。いつもと同じ寝着を纏い、いつもと変わらぬ朝のように思えた。
 まだ夢の世界に身を置いている気分。先程まで体験していたそれとは、一体どのようなものだったか。

「……セオドール様…。っ!?セオドール様!」

 口をついて出た単語にディーナ自身が驚き、ばちりと意識が弾けた。ベッドから飛び出し、部屋中を見渡す。
 首を大して動かさずに端まで確認出来る自室に、愛しい彼の姿は無い。持ち物も、温もりも、香りも。彼がここを訪れたという形跡は、何一つ残されていなかった。
 ディーナが鏡台へ駆けた。胸元のボタンを外して大きく広げ、愕然とした。彼の唇によって咲いた無数の赤い華は、全てが朽ちて消え去っていた。

「そん、な……セオドール様…」

 かくんとディーナが膝から崩れる。目頭が熱くなったが、彼女は歯を食いしばって涙を止めた。

(あの夜のことは幻なんかじゃない。幻にだってしないわ…!)

 真っ直ぐ立ち直し、鏡の中の自分を見据えた。そして、目を合わせたまま力強く頷いた。
 いつもの給仕服に着替え、残っていた食料を腹に収め、水を入れた小瓶を腰から提げて、ディーナは扉の前で一旦立ち止まった。大きく何度か深呼吸する。それから顔を上げ、前へと踏み出した。

*

「若、若」
「何だよじい。見ての通りしっかり働いてるぜ。小言は受け付けねぇぞ」

 エブラーナ城、王政室。現頭首エドワード・ジェラルダイン、通称エッジは大量の書類の合間からしかめっ面を出し、彼を呼んだ大臣にそう返した。

「今回はそうではありませぬ。ひとまず、起こったことだけ申し上げます。バブイルの塔に続く洞窟内で、エブラーナの民でない女性が保護されました」
「…どういうことだ?」
「本人がバロン国出身の使用人だと話したのです。これから兵と担当医師に詳細を聞きにゆきます。どうぞご同席を」
「ん、分かった」

 エッジが席を立ち、大臣の横に並んだ。向かう先は兵士の詰所とのことだった。
 悪しき月の民との戦いも過去のものとなり、現在世界は再建に向けて歩み始めたところだった。エブラーナも他国の例に漏れず、外部の諍いへ手を回す余力などない。バブイルの塔が沈黙し、ひとまず監視を緩められると安堵したのは間違いだったのか。エッジの表情が厳しいものとなった。
 詰所奥の個室。そこには二人の兵と医師が一人控えていた。彼らと向き合って座り、早速大臣が切り出した。

「さて、話の前に確認じゃが…件の女性はどうしておる?」
「個室を与え、療養しております。怪我もですが、何より精神が落ち着くまでもうしばらくかかるかと」
「うむ…。ではすまんが、始めから話してもらえるかの?」
「は」

 兵の片割れが返事し、経緯を述べた。内容はこうだった。
 普段通り洞窟内の魔物を掃討していた折、壁に沿って力なく歩く女性を発見した。慌てて近づき声を掛けると、彼女は真っ先に"ここはどこだ"と詰め寄ったという。
 彼女はその場で自分がバロン国の城仕えの使用人であること、気がつくと見知らぬ部屋のベッドの上であったこと、誰もいない施設内を彷徨い、何とか洞窟まで辿り着いたことを話した。魔物に襲われ出来た傷は浅いものの痛ましく、まずは介抱してやろうと城に連れ帰った。
 彼の報告が一段落してから、今度は医師が続きを切り出した。

「彼女は…ちょうどあの戦役間、自分が何をしていたのか覚えていないようなのです。はっきりと分かる最後の記憶は、バロンの"赤い翼"の部隊長に就任した男に面会したこと…だそうです」
「!」
(ゴルベーザか…!)
「そして、会話を続けるうちに、彼女は断片的な事柄を思い出していきました。それによると、バブイルの塔内で使用人として働いていたことは間違いないようです。ただ、"夢の中の出来事のようだ"と、本人も実感が薄いようですが」
「面妖な…。若、どうお考えですかの?」

 大臣に振られ、エッジは組んでいた腕を下ろした。

「心当たりはある。敵は洗脳術とかいうのを使っていた。俺が知ってるのは記憶を失ってなかったが…普通の人間なら、そんな風になるのかもしれねぇ」
「成程。では労働力として連れてこられた一般人…ということでよろしいですかな?」
「だろうなぁ…」

 まだ完全に納得がいかないのか、エッジの返答は歯切れが悪い。大臣たちは彼の次の言葉を待った。

「なぁ、その女の他に使用人はいなかったのか?」
「それは彼女にも聞きました。まず、塔を下りるまで誰とも会っていないのは確かです。そして、曖昧な記憶の中で、自分と同じような人間は見なかったと…居たのは"赤い翼"らしき兵だけだったと」
「そうか。まぁ、筋は通っているか…」

 しばしの沈黙。それを破ったのは医師だった。

「若、申し訳ありませんが、私はそろそろ診察に戻らなければなりませぬ…」
「あぁ…時間取らせて悪かったな。後はこっちでやっておく」
「はい。…あの、若。女性の処遇はいかがなさるおつもりで?その…彼女はいつ自分が断じられるのかと怯えております」
「馬鹿野郎、操られてた奴に何かする訳ねぇよ。落ち着いたらバロンへ送るっつって安心させてやりな」
「ありがとうございます。では失礼します…」

 医師と兵たちが退室した。エッジは再び腕を組んでため息をつく。医師は彼の言葉を聞いて胸を撫で下ろした様子だった。それこそが、女性が敵でないと信じるに値する証だと彼は思った。

「…じい」
「はい」
「近いうちに塔に捜索隊を出すぞ。他にも人間が残っているかもしれねぇ」
「御意」

 その後、女性は心身の回復を待ってエブラーナを発った。
 彼女…ディーナは賭けに勝った。別の名前を名乗ったことも、記憶を明確に持っていることも悟られないまま、彼女は故郷へと帰還を果たした。






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