31.

 ディーナには一目で分かった。この背を向けるゴルベーザこそが彼女の求め続けた"彼"なのだと。
 彼女の意識は一瞬で覚醒し、素早く身を起こす。ゴルベーザが動いた。ディーナも動いた。

「ご主人様!」

 ディーナがゴルベーザの背に飛び込んだ。外套を両手で力いっぱい握りしめ、額を押し付ける。その震えはゴルベーザに伝わり、彼はぐっと瞳を閉じた。

「ご主人様…ご主人様っ…!」
「………離せ」
「嫌ですっ…!」
「離せ」
「嫌ぁ…!」

 跳ねる鼓動。

「……私は…償いきれぬ罪を犯した。セシルを…たった一人の弟を捨て、憎み続けた。そして、お前をも憎んだ…」

 ディーナが必死に首を振った。

「私はお前を…お前を、この手で…殺そうとしたのだぞ…!お前の震える腕も、絶えていく息も、軋む骨の音も、私は全て覚えている…!ディーナ、私を恨め、許すな…頼む…」
「やめて!」
「っ」
「やめて下さい…お願いです…」

 恐ろしく静まり返った部屋に、ディーナの嗚咽が哀しく響く。彼女は再び頭を擦りつけ、彼に縋る。
 心臓の奥深くを抉る痛みに耐えることは、もう出来なかった。

「恨んでなどいませんっ…!私は…あなた様を愛しています…!」
「!」
「愛しています…ご主人様…!」

 新しく生まれた涙はぽろぽろと落ち続け、ゴルベーザの心に降り注ぐ。一粒、また一粒と、涙は厚く覆った闇を溶かし、一緒に混ざり合って流れていく。その先は、彼の瞳。

(あ…ぁ…)

 ゴルベーザの視界が滲んだ。喉が苦しい。息が吸えない。胸が燃える。何もかもが動かない。
 死んでしまう。そうではない。死んでしまいそうな程に愛おしい。彼女が愛おしい。

「ディーナ…!」

 ゴルベーザが振り返り、彼女の濡れた両頬に冷たい鋼の手を添えた。その次の瞬間、鎧は砕けるように輝く粒子となって空中へ飛び散り、消え去った。直に彼女に触れ、彼はぐっとその柔らかな肌を包み込み、顔を寄せた。
 唇がぶつかる。ディーナが腕を伸ばし、ゴルベーザの肌を探し当てる。一度わずかに離れ、彼がようやく深く酸素を吸った。それを渡すかのように、顎を傾けて再び食らいつく。
 ディーナの手がゴルベーザの頬を撫で、首へと回った。ぎゅっと自らの方へ引く仕草に応え、彼も体を支えるように背中と肩を抱く。彼女の指先がぴくりと揺れた。

「ん…っ、ぁ…ん、ん…!」
「…ふ…」

 吐息を混ぜ、舌を合わせ、湿った音色が二人の耳に侵入する。ディーナの指が大きく広がり、ゴルベーザの髪を纏わせ後頭部を上っていく。彼は思わず顔を振って、外れた唇から色めいたため息が溢れた。

「っは…ディーナ…!」
「ぁ…ご主人様…」
「ディーナ、ディーナ、愛している…!」
「!!」
「お前は私の光…闇に染まった私を強く照らしてくれた、ただ一つの希望…!」

 ゴルベーザの濡れた瞳から、すうと涙が一筋零れていく。

「だが、私は…光に焼き尽くされることを恐れた…。お前の温もりを拒み、潰えることを願った…すまぬ、すまぬ…!」
「……」

 ディーナが踵を上げ、ゴルベーザの唇に触れた。彼の両目を覗き込み、黙ったままそっと微笑む。
 自身がとうに許されていることを認められなくて、ゴルベーザは彼女を胸に押し付け、その微笑みを埋めて消した。ディーナは彼の矛盾を理解し、腕を回してただ彼の心音に耳を傾ける。
 その音にディーナの鼓動が重なっていく。彼女がゴルベーザに触れたことで、彼が抱く闇とその奥に秘められていた光に気づいたように、彼もまた、彼女が伝えようとしている想いを知る。
 不意に、ゴルベーザがディーナの頭を包んでいた右手を動かし始めた。ゆっくりと、慈しみを込めて、ぎこちなく。あまりに慣れないその手つきに彼はディーナの滑らかだった同じ行為を思い出し、ほんのわずかだけ、苦く笑った。
 抱擁を解き、二人は再び見つめ合った。

「……ありがとう…。それから、やはり謝らせてくれ。私はこれよりもう一度罪を犯す…」

 ディーナの表情が曇り、不安げにゴルベーザの衣服を握りしめる。彼はその手を取った後、しばらく瞼を下ろして黙ってから、紫の双眸を彼女に向け、静かに告げた。

「私の名はセオドール。ディーナ…お前の声で、私を呼んでくれぬか…?」
「…っ…!」

 ディーナの頬にみるみる色が差す。開かれた瞳は月明かりを浴び、穢れを知らない宝石のように美しく輝いた。それからただゴルベーザだけを捉え、笑顔を浮かべるためにゆっくりと細まっていく。それにつられ、彼の唇は薄く弧を描いていた。

「セオドール様…!」

 この瞬間の彼女の姿を片時も忘れまいと、ゴルベーザは固く誓い、胸に刻み付けた。

*

「…ぁ、あぁ…ん…!」
「……はっ…」
「やぁっ、ぁ…っ……あ、あ、っ……っ…ああぁっ!」

 繋がれた両手にひたすら力を込めて、ディーナが眉を歪ませ顎を反らせた。息を詰め、胎内のゴルベーザを強く締め付けながら、びくびくと全身が大げさな程跳ねる。その体勢で少しの間動きを止めてから、とさりとシーツに沈んだ。
 達した彼女の表情を愛おしそうに見つめ、ゴルベーザが上半身を折って口づけを落とす。ぎゅ、と不規則に彼女の中が波打った。

「は…ぁ……」
「……ディーナ」
「…セオ、ドール様…」

 指を解き、抱きしめるように腕を回した。ディーナが何とか応えようと緩く肩口に触れる。啄ばむようなキスを繰り返し、そのうちゴルベーザが背をゆっくりと撫でた。
 しなる体を慎重に持ち上げる。驚いたディーナがしがみつくのを確認してから、彼は身を起こし、彼女を自らの上に座らせた。
 ふるふると首を振って、ディーナが刺激の強さを訴える。ゴルベーザはあやすように頭を撫でてやった。熱に浮かされ、小刻みに震える彼女を愛らしいと感じていた。彼女に対して初めて持つ感情だと思った。

「ぁ…だ、だめ…」
「何故だ…?」
「や…」
「ディーナ」

 首筋に顔を埋める彼女を優しく剥がし、じいと視線を送る。ディーナの喉奥がまた切なく締まった。

「愛している」
「っ……わ、私も、です…セオドール様…」
「あぁ…もう一度、呼んでくれ…」
「セオドール様、んっ…!」

 ゴルベーザが一気に距離を詰めた。何度行っても満足出来るはずがない。それはディーナも同じで、片方が離れればもう片方が追いかけるようにして、唇を重ねていく。
 先に根を上げたディーナがくたりとゴルベーザへしなだれた。その隙を逃さず自身を深く奥に挿れる。高い悲鳴が上がった。
 がつがつと揺すられ、ゴルベーザの頭をぎゅうと抱き込んだ。一度達して敏感になった全身が、ほんのわずかな感触をも拾い上げて脳へと運ぶ。汗ばんだ彼の肌がたまらなく熱く、同時に言い表せない安心感をもたらして、ディーナは甘えるように擦り寄った。

「あ、あ…あっ、あ」
「はっ…く…!」
「あっ、んぅ…」

 ゴルベーザが再びディーナをベッドに押し倒した。腰を掴み、さらに激しく抽送を繰り返し、快楽に悶える彼女の様子を見下ろした。
 飛び散る愛液。全てをさらけ出し、涙を流して彼の真名を呼び続けるその姿に、胸が張り裂けそうになる。

「セオドール、様っ…あぁ、あぁ…!」
「ディーナ…!」
「んっ、あ、愛して、います、セオドール様…!」
「っ…」
「ずっと、ずっと、好き、でした…っ」

 視界が一気に歪んだ。

「好き、セオドール様…!」

 ディーナが両手を上げた。ゴルベーザが近づき、彼女のすぐ側に肘を付く。その背を抱き、脚を絡ませて、ディーナが喘ぐ。

「ぅ…っ…!」
「んぁ、あ、あぁ……ぁっ、んぅ……わ、わたしっ、もう…!」
「あぁ…!」
「はぁっ、あぁん…!」

 彼女の弱い部分を穿つ猛り。果てが迫っている。嫌だ、と頭の中で彼自身が叫んでいた。けれど、ディーナと共に悦びを得ようと抽送はさらに速まっていく。
 呼吸が上手く出来ない。どこかへ突き落とされそうな、訳の分からない衝動がディーナを襲う。爪を立て、髪を振り乱して、助けを求めるように、絡めた脚で彼を強く引き寄せた。

「ああぁ…っ…っ、ふっ…」
「ディーナ…!」
「セオドール様っ、っ…っ………っ!!」

 ディーナが再び昇り詰めた。ゴルベーザを食い千切らんばかりに咥え込み、彼の精を受け止め、奥へと導き入れていく。
 何度も脈を打ちながら、ようやく解放した己の熱を彼女へ渡した。涙が溢れていた。ゴルベーザはじっと動きを止め、ひくひくと尚も彼を求める温かな彼女を味わい続けていた。

*

 ふ、とディーナが気を取り戻した。今までぼうと天井を眺めていたことをようやく理解し、ゆっくりと視線をずらす。その先にゴルベーザの後ろ姿が映った。

「……」

 彼女が見ていると気づいたのだろう。彼が振り返った。穏やかな眼差し。しかし、底に何かが潜んでいる。彼女は無意識にその何かを悟り、眉を下げた。
 ゴルベーザが歩んでくる。彼に触れたかった。しかし、どの指も、微かにすら反応を返してくれることはなかった。
 あぁ、お願い。お願いだから。

「………行かない…で……」

 その声も、その想いも、彼女の中へ閉じ込めるように、唇を合わせた。合わせたまま、彼女には届かない言葉を呟いた。魔力が顕現し、口元がうっすらと淡く光る。
 ディーナの瞼がその意思とは裏腹に降りていく。雫が一粒零れ落ち、音もなく枕の布地に吸い込まれて消えていった。
 彼女は深い深い眠りについた。
 ゴルベーザが改めて彼女の両頬を包んだ。長く、ただ黙って額を合わせる。ようやく顔を上げた彼は、感情を無理矢理捨て去ったかのような、そんな偽りの虚無を表面に貼り付けていた。
 彼女を清め、寝着を着せてやる。一定の間隔で繰り返される息づかい。何故か、ほんの少しだけ安心した。何に対してなのだろうか。分からなかった。
 ゴルベーザが立った。目を伏せ、鈍い動作で体を反転させる。靴音が響く。一歩一歩、それが小さくなっていく。
 あの時から心臓を貫いたままの一本の刃は、今も、抜けていなかった。






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