29.

「!…一周したのね。この階にも収穫は無かった…」

 道の真ん中に置いていた目印のリボンタイを拾い上げ、ディーナは落胆のため息をついた。ゴルベーザと別れてから彼女は行動範囲を日々広げ、塔内を探索する毎日を送っていた。
 主人の前では命令に従ったものの、時が経つにつれ彼女の心境は変化した。戦場と言っても、そこには必ず自軍の陣営地があるはずであり、運営のみに関わる兵士がいるはずである。彼らと違って彼女に戦闘能力は無いが、代わりに数人分の働きが出来るに違いない。

(もう待つだけなんて耐えられない。ご主人様のお隣は無理であっても、少しでも近くに居たい…!)

 気持ちは先へ先へと急いているが、塔の構造が彼女を非情に拒絶する。階層間を行き来する移動装置を見つけるまで何日もかかり、操作方法を把握するのにまた長く時間を使った。わずかすぎる一歩をもどかしく思いながらも、ディーナは辛抱強く、着実に前へ進んでいた。

(階層を一周するのにそれなりに時間はかかるけれど、外から見た塔の大きさはこんなものではなかった。きっとここは本塔では無いんだわ…)

 少し休憩しようと壁にもたれて座り込んだ。リボンタイを装着してから懐に入れた紙を広げ、書き込みを確認する。手書きの簡易地図だった。

(移動装置で選択出来る一番下の階にだけ、部屋の入り口とは思えない大きな扉があった。あれが本塔への通路の可能性が高い…何としても開ける方法を見つけないと…!)

 調べ終えた階層は半分まで到達した。その間、魔物にも人間にも遭遇していない。通用口と思われる扉は、彼女を閉じ込める以上に危険を招き入れない意味を持つのだろう。
 懐中時計で時刻を確認し、ディーナは自室に戻ることにした。移動装置を起動させ、その中でじっと佇みながら、初めてこの巨大な塔に足を踏み入れた日を思い出す。

(ご主人様は、飛空挺の格納倉庫から私の部屋まで魔法を使って移動された。それは私に道順を覚えさせないためだったのね。どこまでお優しい方なのだろう…)

 戦い全てから彼女を遠ざけ、ゾットの塔を脱する時も、自ら迎えに来てくれた。

(けれど、申し訳ございません…私はあなた様の元に参りたいのです…!)

 扉が開いた。装置から出て廊下を進む。その彼女の足下に出来た影が、唐突にぐにゃりと形を崩した。程なく、彼女の背後から低い声が上がる。

「探したぞ…」
「!!」

 突然声を掛けられ、ディーナが勢いよく振り返った。兜を外したゴルベーザが何の前置きもなく現れていた。彼女の両目が限界まで見開く。が、すぐに違和感を覚えてじっと見定めるように睨みつけた。
 ゴルベーザの瞳は光を失い、鎧と同じ闇色に染まっていた。ぴりぴりと肌を刺すような威圧感。ディーナを見下す眼差し。薄く吊り上がった唇。彼女はこのような表情を作る主人など知らない。

「……あなたは誰ですか?」
「おかしなことを言う。お前まで虫ケラと成り果てたか?」
「あなたはご主人様ではない!」

 ディーナがきっぱりと断じた。ゴルベーザの嗤っていた口元が真一文字に結ばれる。

「ご主人様はそのようなお顔をなさらない!あなたは……あなたがずっとあのお方を苦しめてきたのね…!」
「…ほぅ」
「ご主人様!聞こえますか!?目をお覚まし下さいませ!ご主人様!」
「何を…っ!?」

 ずきりずきりと、治まっていたはずの頭痛がディーナの声に反応して蘇った。ゴルベーザの眉が厳しく寄り、そして彼はかっと目を開く。

「この…っ!」
「あっ!」

 ゴルベーザがディーナを殴り、言葉を止めた。首を掴んで一気に持ち上げる。足が地面から離れ、彼女は苦悶の表情を浮かべながら空気を求めてもがく。そして、彼女を絞めようと力むゴルベーザも、彼女と同じ程に苦痛に晒された顔をしていた。

「忌々しい、忌々しい!貴様が全てを狂わせた!毒虫が貴様を求め、私を拒んだ!あぁ憎い…貴様をこの手で殺し、毒虫を二度と浮かぬ絶望の淵へ叩き落としてくれる…!さぁ死ね!!」
「…っ……!」

 ディーナへ伸ばした腕ががくがくと震えている。ゴルベーザは反対の手も使おうとしたが、そちらは何故か反応せず、だらりと垂れたままだった。そればかりではない。首から下の感覚が薄れていく。頭が割れる。汗が吹き出す。視界が激しく揺らぐ。
 ゴルベーザはぎりりと奥歯を噛み締め、それから髪を振り乱して叫んだ。

「動け!!何故動かぬ!?この女の骨を砕くことなど容易いものだろう!?」
−やめろ!!−
「ぐあっ!」

 ゴルベーザの脳内に"声"が響き渡った。その衝撃はすさまじく、身体の自由が利かない彼は身を捩って悶えることすら出来ず、一瞬意識を引き剥がされる感覚すら味わった。顎を仰け反らせ、がちがちと歯を鳴らして戦慄く。

−貴様の思う通りにはさせぬ!ディーナを離せ!"私"を返せ!!−
「あ……あ……!」

 垂れた腕が拘束する力に抗うように、少しずつ少しずつ上がっていく。そして、あるところで全てを引き千切り、勢いを取り戻して天を仰いだ頭部を掴んだ。

「あああああ!!」

 闇に身を落とそうとしていたディーナをも目覚めさせる絶叫。ゴルベーザの全身から力が抜け、彼はがしゃりと膝をついた。
 解放されたディーナは床に叩きつけられ、喉を引きつらせながら激しく咽せ込んだ。空になった肺を満たそうとするが、上手く呼吸が続かず苦しさに泣いていた。唾液か胃液か分からないものを吐き出して、ようやく彼女は長く息を吸えるようになった。
 ひゅうひゅうと喉を鳴らし、ディーナがわずかに顔を上げる。霞がかった視界の中にゴルベーザの瞳を見つけた。彼女と目が合ったと理解した直後、彼のそこから涙が溢れていくつも筋を作っていった。

「ディーナ…すまぬ…すまぬ…!」

 ゴルベーザが何度も何度も謝り続けている。返事をしたかった。ご主人様、と呼びかけたかった。しかし、出るのは掠れた空気の音ばかり。それでも彼に届くことを願って彼女は弱々しく唇を動かした。
 ゴルベーザの泣き顔がさらに薄くなり、声も遠ざかっていく。最後まで彼を呼ぶ声は声にならず、ディーナは真っ白な空間へと滑り落ちていった。






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