1.
(腫れは…引いたわね)
鏡に映る自分の頬をひと撫でし、ディーナはため息をついた。目の前の表情は疲れが色濃く出、そして殴られた跡が赤く残っている。昨晩は傷の熱のせいでなかなか寝付けなかった。
今の主人に宛がわれてどれぐらい経っただろうか。使用人の扱いが悪いと有名で、彼女は贄として差し出されてしまった。おかげで屋敷からろくに出ることが出来ず、じっと耐え続ける日々である。
バロン王国には独特の使用人制度があった。それが"侍女"である。一般的に、主人の身の回りの世話を行う使用人は同性であるが、この国では主に若い女性がその役目を担っていた。
侍女の地位とは城の下働きの女たちの目標のひとつであり、憧れであった。目に留まった者を自分の専属にと引き抜くのが上流層の慣習で、実力を認められた彼女らはその経緯から己の主に忠誠を誓う。
しかし、ディーナは違っていた。前の侍女に逃げられた主人が次の指名を決める前に、城側から彼女を送ったのだ。もちろん、本人の意思は無視された。
おそらく彼女のように主との関係に問題を持つ侍女は少なくないだろう。しかし、脈々と続いてきた伝統、埋まることのない身分差がその現実を隠し、誰も触れようともしなかった。
ディーナ自身、侍女として他人に仕えることに抵抗は全く無く、むしろ最上級の誇りを持って日々責務を果たしている。だから、逃げ出そうなどと考えることは一度も無かった。
(まぁ…昼間は誰もいなくて楽なんだけど)
洗濯を済ませ、食材を届けに来た市場の者に憐れみの眼差しを送られ、屋敷内を掃除した後昼下がりを窓辺でぼんやり過ごす。普段通りの半日を終えた頃、変化は唐突に訪れた。
がんがんと、正面玄関を叩く音。ディーナがはっと顔を上げ、軽く眉をひそめてから足をそちらに向けた。来客などめずらしいにも程があった。
警戒の意味も込めて扉からわずかだけ顔を出すと、その先には城仕えの兵士が立っていた。彼が一歩近づき、仰々しく口を開く。
「お前がここの使用人か?」
「えぇ…ご用件は?」
「召集がかかった。今すぐ城まで来い」
「主人はすでにそちらにおりますわ」
「呼ばれたのはお前だ」
「え?」
ディーナが目を丸くして詳細を聞き返そうとしたが、兵士に厳しく睨みつけられてしまった。彼女はもうしばらく戸惑ってからためらいがちに一礼し、屋敷の鍵を取りに走る。不思議な胸騒ぎが込み上がり、彼女は拳を鎖骨の中心に当て、詰めた息を勢いよくはき出した。
*
案内された部屋の前で、ディーナは再び緊張を解そうと深呼吸を繰り返していた。ここまでの道のりで散々注目の的になったせいか、軽い頭痛が起こっている。彼女は内心でこの事態を引き起こしたであろう主人に毒づいてから、意を決して扉を開いた。
「失礼します…」
下を向いたまま、前方から放たれる威圧感に怯みつつも進んでいく。やがて目線の先に人物の脚を捉え、恐る恐る顔を上げた。
「!」
漆黒の甲冑に身を包んだ大男だった。
頭から指、足の先に至るまで重々しい鎧がその身全てを覆い尽くしている。闇を溶かし固めたような鈍い輝き。一つ目の怪物を連想させる兜の造形。かつて目にした暗黒騎士が纏っていた仄暗い気配とは比べものにならない禍々しいそれ。
ディーナの全身が一気に粟立ち、彼女は本能でその場に素早く跪いた。
「……使用人はお前か?」
低く、抑揚の無い声が降ってくる。
「さ、さようでございます…」
「そうか」
男が動き、金属のぶつかる音が響いた。武器を構えたようにも聞こえて、ディーナの体がまた硬くなる。
「知らせることがある。本日、お前の主人を極刑に処した」
「…………!?」
(今、何て?)
あまりに突然、しかし自然に放たれた言葉に、ディーナの思考がしばらく止まった。
誰かが死んだ。
誰が?主人だと目の前の鎧の男は言った。
何故?それは分からない。けれど、確かに死んだ。
昨晩彼女を怒鳴りつけ、髪を掴み、顔を殴った主人が死んだ。
この男が殺した。
「そう…ですか……」
ひどくほっとした。嫌な人間に成り下がったとディーナは思ったが、その原因を作った男のことなのだから、構いやしなかった。
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