25.

 その日、ローザは朝から胸騒ぎが止まらなかった。心を落ち着かせるために部屋中を歩き回ってみたり、水で体を清めてみたりしたが、大した成果には繋がらない。この塔に監禁されてずいぶん経ったが、このようなことは初めてであった。
 唐突に錠の開く音が鳴った。びくりとローザが入り口を向く。そこにはディーナが感情を押し殺した顔で立っていた。

「ディーナ…!」

 思わずローザは彼女に駆け寄った。彼女は横に置いたワゴンの中から布の塊を持って差し出す。訝しんで受け取ったローザの両目が丸くなった。見覚えのある衣服、装飾品。それで悟った。

「セシルたちが来るのね」
「はい。お食事が終わりましたらお着替え下さい。案内の者がじきに参ります」

 そう答えてディーナが食器を並べ始める。服をベッドの上に置き、彼女の動きがひと段落したところを見計らって、ローザが再び尋ねた。

「あなたはどうするの?」
「自室で待機するよう指示されております。見つかった時は…まぁ、その時ですわ」
「そう…。体は大丈夫?ひどいこと、もうされてない?」

 ディーナは短く沈黙し、それから薄く、しかしとても清らかな微笑みを浮かべた。それが偽りでも強がりでもないことを知り、ローザも安堵する。彼女は数歩進み、ディーナの手を取って握りしめた。

「ディーナ、今までありがとう。こんなこと言うのも何だけど…元気でね」
「はい…ありがとうございます。ローザ様もお元気で」

 一度その手を握り返し、ディーナが離れた。今生の別れ、それも互いに命の危機を抱えた状況だというのに、何故か二人には実感が湧いていなかった。

*

 自室に戻り、ディーナはひたすら息を潜めて時が過ぎるのを待っていた。ここは主要通路から外れた区画なので、最上階を目指すセシルたちの目に入らない場所と言える。とりあえず彼らと鉢合わせにはならないだろう。

(ご主人様…どうかご無事で…)

 心を重ねたあの夜からまた数日も経っていない。翌朝顔を合わせた彼は、夜のことを一切表に出さなかった。彼女に口づけた人格と共に封じられたのかもしれない。別にそれで構わなかった。
 ゴルベーザの精神は安定しているようだった。一番長く接してきた彼のまま、こうして白兵戦から避難するようディーナに命じた。それ以外の采配も、将に相応しい判断力を以って行われた。
 しかし、ゴルベーザに絡み付く複雑な闇を理解したディーナには、もはや長く接した彼すら本当の彼と思えないようになっていた。自我を失っている訳ではない。しかし、違う意思が彼に干渉し、思考をその意思の望む方へ誘導されているのではと、ディーナは仮説を立てた。だから"魔人"の将に彼女は恋心を抱くようになり、同時に解放されてほしいと願う。
 じっと動きを止めたディーナの頭の中に、別れたばかりのローザの言葉が巡っていた。何でも肯定して従うだけは愛とは言わない。彼が、後悔しないはずがない。

(申し訳ございません、ローザ様…。あなたのお言葉は正しかった。ご主人様は、私が黙っていたせいで、きっと余計にお苦しみになった…)

 痛む胸を押さえつけ、あの夜繋いだ温もりを思い出す。

(私はあなた様にもう一度…いいえ、何度だってお会いしたい…!だから、もう躊躇いません。あなた様のために、あなた様にも抗って、お心を取り戻して下さるまで呼びかけてみせますわ…!)

 部屋の外は相変わらず静まり返っている。本当に今塔内で戦いが繰り広げられているのか、疑問を持たずにはいられない程だった。ディーナは長くため息をつき、渇いた喉を潤そうと席を立った。
 その時、ディーナの背筋にぞわりと悪寒が走った。鳥肌を立てながら後ろを振り返る。何とも形容し難い音を発しながら黒い塊が床から涌き出ていて、やがて外套を翻したゴルベーザが仄暗い光と共に現れた。

「ご主人様!?」
「来い…!」

 彼はまともに立てない様子で、大きな体は前へと傾いている。ディーナが慌てて走り寄り、冷たい鎧に触れた。彼はディーナの腰に片腕を回して乱暴に持ち上げ、何か呪文のようなものを唱えた。
 重力を感じなくなったと思ったら、目の前を闇が覆い、そのまま二人を呑み込んだ。

「きゃあ!」

 がしゃんとゴルベーザの鎧が鳴り、全身に衝撃が走る。ディーナが瞳を開いた。彼女の自室に居たはずの二人は、飛空艇の甲板まで瞬時に移動していた。
 そのことを理解したディーナに遅れて転移時の負担がのしかかる。軽い吐き気がこみ上がり、むせながら床へ座り込んだ。
 ゴルベーザは彼女を一瞥し、片足を引きずるような姿勢で歩み出す。彼女がそれに気づいて立ち上がろうとしたが、同時に船体が大きく揺れたため、再び短い悲鳴を上げて尻餅をついた。
 飛空艇が塔から飛び去っていく。ディーナは小さくなる塔を呆然と見つめていたが、突風に髪をかき乱されて我に返る。ゴルベーザを追いかけ、船内へと入った。
 ゴルベーザはカーテンで仕切られた船室の奥に兜を外した状態で座り、魔道士二人から治癒魔法を受けていた。ディーナが息を呑んで正面に回る。彼の顔からは血の気が失せ、重い怪我を負っていることがすぐに理解出来た。

「あぁご主人様…何てこと…!」
「…これしきのこと、どうともない。治療が終わり次第行く。準備しろ」
「か、かしこまりました…どうかご自愛を…」

 ディーナは命じられた通りに船長室へ向かい、ベッドの支度を整えていった。シーツを敷きながら涙がそこに落ちそうになり、何度も目元を乱暴に拭った。
 船内にカインやバルバリシアの姿は無く、赤い翼の隊員しか乗り合わせていないようだった。二人や他の魔物たちはゾットの塔に残っているのだろうか。ディーナは暗い想像を浮かべ、早鐘を打つ自身の鼓動をただ聞く他に何も出来なかった。
 かちゃりと静かに扉が開き、現れたゴルベーザがディーナの元へ進んだ。足取りは先程と違ってしっかりしたものだった。彼はベッドに腰かけ、防具を全て術で消し、ひとつ息をついた。表情に大きな変化はないが、痛みに耐えるような眉の寄せ方ではないようだった。

「お怪我は!?」
「それは魔法ですぐ治る…が、失った体力や魔力までは戻せぬ。バブイルの塔に着くまで誰も通すな。私は休む…」
「かしこまりました、ご主人様…」

 ベッドに潜る彼をディーナが支える。彼は右手を高く掲げ、ぎりりと拳を握り込んだ。それから力を抜き、手の平を両目に当てた。

「カインの洗脳術が解けたのは誤算だった…。あの老いぼれめ、賢者と呼ばれるだけの力は残していたか…!」
(!)
「セシル…この借りは必ず返すぞ…!」

 ディーナが静かに近づき、シーツを掛け直す。

「今はごゆっくりお休み下さい」
「ディーナ…お前に状況を話しておく」
「ご無理は…」
「大した労力ではない。ゾットの塔は落ちた。この先はバブイルの塔を拠点とする」
「…はい」
「今言った通り、カインはセシルの元へ戻っただろう。痛手だが…地上のクリスタルは揃った。残りは地下の二つのみ」
「二つ…」
「私は回復次第赤い翼と共に地底へ行く」
「わ、私も連れていって下さいませ!」
「ならぬ」

 思わず身を乗り出した彼女をゴルベーザは強く諌めた。

「戦力にならぬ者は不要。お前はこれまで同様塔で待機しろ」
「っ……か、かしこまりました…」

 ディーナがエプロンの袖を強く握りしめた。彼は一旦言葉を止め、数拍置いて再び言う。

「バブイルは元から住み着いている魔物や機械兵が多い…無用の場所へは決して出歩くな」
「はい、心得ております」
「……後のことは任せる…」

 彼が瞳を閉じた。ディーナはその前髪を整え、一人掛けの椅子を側まで持ってきて腰を下ろす。
 聞き慣れた飛空艇の稼動音がいやに耳の奥に響いた。






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