24.

 心はとても穏やかだったが、ディーナの瞳からは涙が一筋流れていた。彼女はそれが顎を伝って落ちた時に、初めて自分が泣いていることに気づいた。
 ゴルベーザがうつむく。両手を眼前に緩く掲げ、それから膝へと下ろした。

「……私は……憎い…」
「え…?」
「お前が憎い…お前を憎めと何度も"声"が私に囁きかける…!」

 ゴルベーザが頭を抱え込んだ。この小さくなった背をディーナは知っている。彼女の腹に纏わりつき、撫でるようせがんでいたあの背だ。彼女はベッドに片膝を立てて乗り、ゴルベーザにそっと触れた。

「声、ですか…?」
「そうだ…痛みと共にあれはやってくる…。あれは私が従うまで…いつまでも言葉を吐き続ける…。全てを呪う心を思い出すまで、いつまでも…!」
(痛み…頭痛…?声…………っ声!)

 ディーナがはっと思い出す。ゴルベーザによって懲罰房へ入れられる直前、激しい頭痛の合間に彼女も"声"を聞いていた。それは彼女自身のものではなく、ゴルベーザのものでもなく、もっと陰湿で、じとりと肉体の内側へ侵入するかのような、おぞましい音だった。

(あ…あぁ……ご主人様…!)

 ディーナは理解した。それこそが、ゴルベーザが言う"声"の正体でもあるのだと。彼は人が変わったのではない。変えさせられて、狂わされて、周りに攻撃を続けていたのだ。
 彼の背を撫でていたディーナが止まる。それから額を当て、もう片方の手も置いて、ローブをぎゅっと握りしめた。

「……あなた様は……私が憎いですか…?」

 ぐ、とゴルベーザが強張るのが分かった。ディーナの震えが伝染したかのように、かたかたと小さく体を揺らす。
 彼がディーナを振りほどいた。そして、腕を引いてその胸へときつく抱きすくめた。

「憎めるはずがなかろう!お前は私のただ一つの安らぎなのだから…!」

 絞り出した叫び声は、ディーナの全身に深く深く染み渡っていく。そしてその分だけ心に満たされた感情が溢れ、新たな涙に変化してゴルベーザへと落ちていった。
 ディーナは両腕を伸ばし、彼にしがみついた。

「嬉しいです、ご主人様…!あなた様にそう思っていただけることは、何にも勝る喜び…!」
「ディーナ…私は、私はきっと…またお前を…苦しめる…!私は…!」
「いいえ、平気です。だってそれはあなた様ではないと、今こうして分かったのですから…」

 ディーナが愛おしそうにゴルベーザの胸へ頬を滑らせる。その奥で轟く彼の鼓動が何よりも彼女を労い、慰めた。
 ゴルベーザは第三者の干渉を受けている。ディーナはその真実を確信していた。長く仕えるうちに、人格が分裂したかの如く振舞い出したのは、正に彼と第三者の意識が一致しなくなったことの表れなのだろう。
 そして、今ディーナを抱きしめる彼はきっと、彼女が愛する主人その人。

「ディーナ…ディーナ…!」
「はい、お側におりますわ…これからもずっと…!」

 ゴルベーザが抱擁を解いた。代わりに両の手でディーナの頬を包む。切なく歪む彼の眼差しに、彼女の心音は大きく跳ねた。彼が近づく。自然と瞼を下ろしていた。
 重なる唇。初めての行為。ディーナの奥底で眠っていたかすかな灯火が反応し、一気に体と心に燃え移った。それは爪の先まで届き、耐え難い痺れを伴って外へと抜けた。
 何度も交わされていく口付け。ゴルベーザの指がディーナの頭を撫で、髪を絡ませ、耳に掠め、首筋をなぞり、腰を掴む。たまらず身を捩り、唇が離れた。

「っはぁ…んっ」

 取り込んだ空気と共に舌が侵入する。ディーナは大げさな程肩を震わせ、衝動のまま自らもそれに触れた。
 頭の中に濡れた音が響く。飲み込めない唾液が唇の端から伝った。彼女は全く気づくことが出来ず、生み出される快感にひたすら翻弄されていた。

「ん……ふっ…んん、んぅ…!」

 いくら息を吸っても足りない。喉も肺も心臓も直接握り潰されたかのように苦しくて、そして思考が霞みがかっていく。
 ディーナのくぐもった悲鳴を耳に入れて、ようやくゴルベーザが彼女を解放する。くたりと力が抜け、必死に呼吸を繰り返す彼女の瞳は、これまで一度も目にしたことがない程潤み、蕩けていた。ゴルベーザは激しい眩暈に襲われ、それから湧き上がる熱情に身を委ねた。何度も抱いてきた攻撃的なそれとはまるで違い、ただ彼女の温もりが欲しかった。
 彼によって衣服を剥がされることにどうしようもなく羞恥を覚え、ベッドに倒されたディーナは顔を覆い、首を振る。ゴルベーザは構わず鎖骨の周りに痕をいくつも刻み、胸の頂に吸い付いた。

「あっ…」

 反対は包むようにして手の平を這わせ、その弾力を堪能する。ディーナは初めて味わう感覚に戸惑い、勝手に漏れる声を外に出すまいとして唇を噛んだ。かつての交わりの頃、彼の手はディーナの入り口を濡らすためだけのものであり、触れる互いの肌はいくら重ねても冷えたままだった。それが今は。
 被さっていたゴルベーザの気配が離れ、ディーナはそろりと視界を広げる。彼はローブを脱ぎ、それからディーナの残りの下着を取り去った。ついと細く伸びる厭らしい糸。顔を真っ赤にしてその動きを止めようとする反応。
 脚を開かれ、その間を覗かれ、思わずディーナは否定の言葉を口にする。ゴルベーザは目を細め、蜜が溢れるそこへゆっくり指を埋めていった。

「あぁ…!やっ…」

 熱い。自分の中がどろどろに溶けているのが嫌でも分かる。声を出してはいけない。今までずっとそう制してきた。
 性急なゴルベーザの指が蠢く度、口を覆うディーナの手が力む。縋るものがそれしかないから、ただただ身を硬くして、きつく目を閉じる。感じてしまうことが、とても後ろめたいとでも言うように。

「っ……っ…!」

 ずるりと一度に指を引き抜かれ、ディーナが悩ましげに腰をくねらせた。止めていた呼吸をようやく再開し、両手をシーツの上へ投げ出す。ほんの少しだけ気分を落ち着けた彼女は、暗闇の中淡く映る主人をそっと見上げた。視線がぶつかる。
 意図を読んで身を起こし、後ろ向きに四つん這いの姿勢を取った。ゴルベーザが彼女の尻を撫で、猛った雄を宛がう。背筋を駆け上がる電流を味わいながら、一息で奥まで進めていった。

「んっ…!」
「……ぅ…」

 ぞくぞくと全身の肌が粟立っている。指とは比べものにならない熱量だった。下半身に集まる何かに、それ以外の部位がおざなりになってしまいそうになる。事実、もう膝にも腕にも力が渡らない。
 ゴルベーザが抽送を始め、響き渡るような衝撃が広がった。わずかな痛みを飲み込んで、確かな快感がディーナに襲い掛かる。あぁと一度思わず啼いて、彼女の体勢は崩れ落ちた。
 シーツに顔を押し付け、口に含ませて、腰を打ち付けられて涙を零す。かき混ぜられる粘着質な水音が容赦なく彼女を辱め、さらに蜜が流れていく。

「ふぅっ、っ、っ、んっ…!」
「…っ!」
「ぁっ!?」

 ゴルベーザがディーナの両肩を掴み、ぐいと持ち上げた。抱き込むように自分の腕を回してその状態で固定する。新たな場所に楔が到達し、驚いた柔らかな壁がぎゅうとそれを締め上げた。

「は、ディーナ…!」
「ひぅっ…」

 ゴルベーザが近づき後ろから彼女の耳に噛みつく。次に、もがいて振り返ったその唇に食らいついた。彼の荒々しい息遣いを間近で感じ、ディーナの理性はとうとうぷつりと切れた。

「んむ…ぁ…ご主人様…!」

 重ねては離れ、口を薄く開き、舌を出して擦り合わせる。疼きが止まらない。これが、求められるということなのか。
 もう限界だと言わんばかりに、ゴルベーザが体重をかけてディーナを再びベッドの上へ押し付けた。そこへ被さり、頬を寄せたたまま抜き差しを再開する。彼女の背が大きくしなった。

「あっ、あっ、ぁ、ご主人様…!」
「っ……ディーナ…!」
「ご主人様っ、あぁ、あぁ、あぁっ…」

 顔のすぐ横に置かれた彼の手に彼女が縋りつく。重ねて、懸命に握りしめて。少しでも多く、長く、彼の体温を感じていたい。
 抑えることを忘れたディーナの嬌声がゴルベーザを高めていく。彼女が啼く度に、どくどくと心臓が熱くなる。経験の無い、果てを知らず、己の何もかもを焼き尽くすような熱だった。たまらない、全てを解放したい。
 絶え間なく激しく奥を突き上げられ、ディーナはすすり泣くような声で主人を呼び続けた。

「…う…!」

 小さく呻き、ゴルベーザが一度跳ねた。片腕で彼女を強く抱き寄せて、精を注ぎ込んでいく。うねる胎内は最後までゴルベーザに絡み付き、与えられた悦びに打ち震えていた。

「ぁ……」

 支えを失って、ディーナが力無くベッドに沈む。その横にゴルベーザもどうと倒れ込んだ。刻み付けられた互いに未だ溺れ、乱れた息を繰り返す。
 どれ程の時間が経っただろうか。ようやくディーナは寝返りを打ち、闇に慣れた目で天井を見やった。起き上がろうと動いたが、それをゴルベーザが制し、ディーナの腹に触れた。ゆるく撫でられ、ぴくりと恥じらって彼女が逃れようとする。

「ご主人様…?」
「………孕むのか…?」
「!」

 一瞬ディーナは動揺したが、いくらかまばたきをして、そっと手を重ね、緩く首を振った。

「いいえ…。もうずっと、月の障りは来ていませんわ…」
「……」

 ゴルベーザが顔を逸らした。ややしてからディーナはベッドから抜け出し、支度を始める。服を纏い、エプロンの紐を結び、後ろを振り返った。
 彼は眠りに落ちたようだった。無防備に寝息を立てる姿に胸を甘く高鳴らせ、彼女は儚げに微笑み、そっと口づけを一つ落とした。

「おやすみなさいませ、ご主人様…」

 シーツを整え、歩み出し、ディーナが扉を閉めるその最後まで、月明かりは彼らに届かなかった。






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