23.

 幸いディーナの熱は一日で下がり、彼女は周りの制止を振り切ってすぐに働き始めていた。主人が不在のため、どうせ仕事の量はたかが知れているのだ。少しでも動いている方が心身ともに楽になれると彼女は考えた。
 厨房で食器の手入れをしていたディーナの耳に知らせが入ったのは、それから数日後のことだった。

「ディーナ!あぁやっと見つけた!」
「あらドグ様。このようなところにいらっしゃるなんて…いかがしました?」
「バルバリシア様の命でお前を探していたの。ゴルベーザ様がもうすぐお帰りになるとのことよ」
「えっ?ご、ご予定はまだ先では…?」
「戻るのはゴルベーザ様だけで、本隊はそのまま作戦を遂行するらしいわ」
「ご主人様だけ…?」
(何かあったというの…!?)

 ディーナの胸中に不安がよぎる。彼女はすぐに食器を片付けて立ち上がった。

「ありがとうございます、ドグ様。承知しました」

 本音を言うと、ディーナにはゴルベーザと顔を合わせる心の準備がまだ出来ていなかった。遠征帰りの気が立った彼には良い記憶が無い。おそらく、溜まった熱を吐き出すために使われることだろう。前回からそれなりに間が空いているため、体への負担を覚悟する必要がありそうだった。
 部屋の状態を確認し、風呂を沸かして着替えを並べておく。まだ余裕があったので、軽食も作っておくことにした。
 ゴルベーザのために手を動かし、時間が経つにつれ、重たかった自分の周りの空気がどんどん軽くなっているとディーナは感じていた。彼に再会出来ることはやはり嬉しく、用意した食事が無駄にならない可能性だって十分あるのだ。
 塔内に飛空艇が入庫したという放送が流れた。ディーナがぱっと顔を上げて駆け出す。
 連絡通路の扉を管理する兵は、ゴルベーザ付きの侍女、ディーナの変わらない行動にいつしか感心すら覚えていた。常にこの場所で主人を見送り、出迎えるのである。例えどれだけ朝早くだろうと夜遅くだろうと、彼女は身なりを整え真っ直ぐに立ち、誠意の込められたお辞儀をする。

「お帰りなさいませ、ご主人様」
「あぁ」

 頭を下げたまま、ディーナの目が開く。そろりと身を起こした。兜を着けたゴルベーザがじっと彼女を見下ろしていた。
 ややしてから彼が歩き出す。ディーナが早足で追いかけ、口を開いた。

「あの、お早いお戻りでしたが、何か不都合があったのでしょうか…?」
「いや、作戦を任せてきただけだ」
「そうですか…安心致しました」
「……ディーナ、腹が減った」
「あ、は、はい!ご用意していますわ!」
(あぁ、良かった…お優しいご主人様だ…!)

 ゴルベーザの後ろにつくディーナの表情は、久々に何の曇りもない笑顔となっていた。
 私室に入り、食事を進めるゴルベーザの隣でディーナがその様子をそわそわと見守る。彼はそんな視線を受けながら、布巾で口周りを拭って切り出した。

「ずいぶん上機嫌のようだな」
「はい、ご主人様がご無事でいらっしゃいましたから!」
「……」

 彼は何も返せず目を逸らす。それから手招いて、彼女を正面に跪かせた。
 ゆっくりとゴルベーザの手が伸びていく。ディーナが本人も知らないままわずかに身を引く。しかし、そっと頬に手を当てられて、今度は違う緊張で体が動かなくなった。
 前髪をかき上げ、額を撫で、そしてこめかみに指が添えられた。ディーナの息は吸い込んだまま止まり、ただただ紫の双眸を見つめ続けていた。
 やがて彼が小さな声で呟き始めた。

「……私は…どうかしていた。私の侍女を…あれだけ痛めつけるなど。……許せ」
「っ…!」

 ゴルベーザの謝罪を受けて、ディーナの瞳からはらはらと涙が流れていく。彼女は何度もゆるく首を振った。

「身に余る…お言葉でございます…!」

 彼女は泣きながら笑っていた。ゴルベーザの両目が、彼女の姿を眩しいと感じたのか、それとももっと別の意味を持ったのか、すうと細まった。
 彼はさらに身を屈め、彼女の耳元に顔を寄せる。いつかの時のようだと思った。今回は、もちろんただの声のままで。

「全ての勤めを終えたら、私の元へ来い」
「!」

 かっとディーナの全身が熱くなった。囁かれた言葉は彼女を冷たく突き放すものであったはずなのに。その低い声色には確かに彼の体温が乗っていた。
 それはまるで睦言のような。

*

 ディーナは激しく轟く心臓が治まるよう何度も何度も言い聞かせながら、ゴルベーザの寝室の前で立ち尽くしていた。
 頬はずっと熱を持ったままだし、頭の中は正体を言い表せない塊が占領していて、思考を行う隙間すら残っていない。何故彼女はこれ程までに正常でいられないのか、そのような疑問について憶測することすら出来ず、ただ肉体が示す過剰な反応に翻弄されている。

(早くいつものように戻って…!)

 息をするのも辛い程、胸の奥が痛かった。しかし、やがて彼女は諦めたように握りしめていた拳を解き、目を閉じたまま勢いよく一気に扉を開けた。
 おそるおそる部屋を確認すると、ゴルベーザがベッドの縁に腰かけているのが見えた。しかし、暗い。カーテンが全て引かれていて、月光が差し込まないようになっていた。
 主人の背を目に入れて、ディーナは自分がすっと冷静になったことを自覚した。浮かれるなんてとんでもない。ただ務めを果たさなければ。
 足音を立てないよう近づき、ディーナはベッドから少し離れたところに置かれた椅子の前で止まった。まず頭から室内帽を外し、クッションの上に乗せる。次にエプロンを脱ぎ、軽く畳んで椅子の背に掛けた。胸元のリボンタイを解いて手の平で持ったところで、あちらを向いたままのゴルベーザが声を発した。

「ディーナ」
「はい…?」

 それきり彼は再び黙る。ディーナは少し待ってから、リボンを置いてベッドの側まで歩んだ。サイドテーブル上のランプが部屋の唯一の照明で、彼の輪郭をぼんやりと薄く浮かび上がらせていた。ディーナは辛抱強く彼の次の言葉を待った。
 ゴルベーザは視線の先の暗闇をじっと覗き込んだまま、ぽつりと呟いた。

「お前は………私が憎いか?」

 ディーナが微かに身じろいだ。彼の真意が瞬時に理解出来たかのような、そうでないような。彼女はそっと瞼を下ろした。
 ゴルベーザは彼女のかつての主人を殺した。その主人は彼女を乱暴に扱った。だから、彼女は自分を解放した彼に感謝した。しかし、例えばその主人が人格者であり、良き雇い主であったならば、どうなっていただろう。
 彼は人の身ではとても行えないような非道を重ねた。魔物を台頭させ、世界を戦乱の渦中に陥れた。
 彼はディーナを信頼したが、いつしか心を病んだかのように変わってしまった。魔人としての一面を、侍女であるはずの彼女にも向けるようになった。かつての主人の記憶を重ね、恐怖しか覚えない夜もあった。元の姿に戻ってほしいと何度も願い、何度も裏切られて唇を噛みしめた。
 それでも。いいや、結局は何があったって。

「いいえ……憎んでなど、いませんわ…」

 ただ、彼を愛おしく思う。






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