22.

 一夜明け日も高く昇りきった頃、カインはバルバリシアを通じてディーナが赦されたことを知った。今は傷薬を持ち、彼女を迎えるために塔内を移動しているところである。
 当初の予定通り、ゴルベーザは明け方に地底へと発った。程なく同行しているルビカンテを呼び出し、ディーナの解放と手当てを伝えるよう命じた。ルビカンテの目に、ゴルベーザは悔いているように映った。それはまぎれもなく彼らが敬愛する将の姿であった。
 四天王…もう二人しか残っていないが、彼らには魔族特有の交信能力があった。その力を使ってバルバリシアはゴルベーザの様子を知り、ルビカンテ同様主が正しい反応を示したことに安堵した。それはもちろんカインもである。
 独房まで到着し、カインが頑丈な造りの扉を押し開けた。ディーナは毛布を纏い端で丸まっていた。しかし動く気配も見られず、彼は違和感を覚えて足音を立てぬよう近づいていく。

「ディーナ…!?」

 一目で異変が起こっていると理解出来た。彼女は異常に汗をかき、ぜいぜいと浅く苦しげな呼吸を繰り返していて、身体にひどく熱が篭っていた。カインは平静を失わないよう自身に言い聞かせながら、毛布を剥いでその頬を軽く叩いた。

「ディーナ!聞こえるか!?」
(…意識は無い…が、脈拍が速い…。いや、ここで俺が診断を続けても無駄なだけだ。早く連れ出さねば…!)

 膝も使って支えながらしっかりと抱き上げる。彼はしばらく行き先を迷ってから治療室の選択を捨て、捕虜である白魔道士の元へと走り出した。

*

 ディーナの瞳が次に開いた時、空は夕焼けによって鮮やかな橙に染まり始めていた。居場所を確認しようとわずかに動いた彼女を制するように、部屋の住人、ローザが上から覗き込んでくる。

「あぁ、ディーナ…目が覚めたのね」
「…ローザ様…?」
「えぇ。カインがあなたを運んだの。ここの治療室は人には向かないからって。魔力を完全に遮断されていなくて本当に良かったわ…」
「そう、ですか…」

 ローザが手を伸ばし、ディーナの額に触れる。それから濡らして絞っていたタオルをそこに乗せた。

「まだ熱は下がらないわね…こればかりは私の白魔法でも治せない…」
「…私は……どういった状態、なのでしょうか…?」
「怪我自体はもう大丈夫よ。だけど、それとは別に高熱を出して…疲れを溜め込み過ぎたのよ」
「……」
「喉が渇いたでしょう?しっかり水分を摂って」
「ご迷惑をおかけして…申し訳ございません…」
「迷惑だなんてこれっぽっちも思っていないわ。今は、休むことだけに専念して」

 水を飲み、改めてベッドに横たわったディーナは目が冴えたようで、熱に浮かされた瞳でローザの姿を追っている。その視線を受け振り返ったローザは、机に置かれた小物を片付けてから椅子をベッドに近づけ、ゆっくりとした動きで腰を下ろした。
 腿の上で揃えた両手を握りしめ、いくらかの沈黙の後、彼女は切り出した。

「…ディーナ…あの怪我は…ゴルベーザから暴行を受けて出来たと聞いたわ。あなたはそんな目に遭わされながら、それでもあの男を愛しているというの…?」
「…はい、もちろん」
「前にあなたと話した時は、ゴルベーザはあなたにはきちんと接しているのだと思った。だけど、こんなの…これじゃああなたが可哀想過ぎる…」

 ローザがぽろりと涙を落とす。近しい存在に、こうやって身を案じてもらったのはいつ以来だろうか。ディーナの胸はこれまでにない程感謝の思いで満たされ、しかし同時に鈍い痛みも広がっていた。

「ローザ様…ありがとうございます。…少しお話を…させていただけますか…?」
「えぇ…」
「ご主人様は…本来このようなことをされるお方ではありません。あのお方は私の働きを認め…私が敵に襲われた際は、お怒りになって下さいました…。使用人の域を超えて、私をご信頼下さっていると、恐れながら自負しております…」

 ローザが何度もうなずく。ディーナはわずかに微笑を浮かべた。

「それが、ご主人様なのです。けれど、あのお方は…もう、闇の力に耐え切れなくなってしまって…それで、私を使って、己を取り戻そうと、されるのです…」
「そんな…!」
「だから、大丈夫です。私は…ご主人様のためなら何だって出来ます。私だけが、あのお方を鎮めることが出来るのです…!」
「違う、そんなのおかしいわ…!」

 ローザが思わず声を荒げ、詰め寄る。

「自分を慕う人に手を上げるなんて絶対に間違ってる!何でも肯定して従うだけなんて、そんなの本当の愛じゃない!」
「いいえ…!あなたは、あのお方の苦しみを知らないから…そう言えるのです…!」
「そうよ。だから私はあなたを一番に心配するの」
「っ…」

 ディーナにはそれ以上反論することが出来なかった。
 ローザが再び瞳を滲ませ、彼女の手を取って言う。

「お願い、よく考えて。もしもあなたに取り返しのつかないことが起きて、ゴルベーザの側にいられなくなったら…彼が、いよいよどうなってしまうかを…」
「……」
「彼はあなたを必要としているのでしょう?一時の衝動であなたを痛めつけて、後悔しないとでも思っているの…?」
「……ご主人様のことを…勝手に…言わないで…」
「そうね…ごめんなさい。でも、分かって、くれるでしょう…?」

 ディーナが顔を逸らす。タオルが額から落ち、ローザはそれをそっと取り上げた。幾筋も涙を流し、小さく震えるディーナをそのままに、彼女は隣室へと席を立つ。
 残る感触、ディーナの両手の平の傷跡を思い起こし、ローザは何度かまばたきを繰り返した後、肩の力を抜いて天井を眺めた。自分の不注意で出来た傷で、主人が労ってくれた大切なものだとあの侍女はかつて語った。その笑みは偽りではなかったが、結果、彼女の想いは歪なものへと変化しつつある。
 相手が抱える闇を受け入れるのは、きっと尊い行為なのだろう。けれど、その闇が誰かを苦しめるまでに広がったとして、自らを差し出し呑み込まれてしまうのは、果たして正しいと言えるのだろうか。

(…偉そうなことを言ったけれど、私が同じような立場になったら、私はどうするのだろう…)

 ローザの脳裏に愛しい暗黒騎士の姿がよぎる。彼はいつも内に巣食う葛藤をその身に押し留めていた。どんな形でもいい、分け与え、背負わせてほしいと何度思ったことか。
 ローザがディーナの様子を窺いに戻る。高熱の中、ずっと必死に意識を繋いていたのだろう。緊張の糸が切れた彼女は深い眠りに落ちていた。
 彼女の腕をシーツの中に戻し、ローザは床に膝をつけ、静かに祈りの姿勢を取った。仲間たちには無事を、そしてこの一途な侍女には安らぎを。彼女はただ一心に願い続けた。






- ナノ -