13.

 ディーナが大きなワゴンを押しながら廊下を急ぐ。多くの物を乗せたり収納出来るそれは、すっかり彼女の相棒となっていた。塔内の魔物たちも、車輪の音が聞こえれば道を譲るのが暗黙の了解となりつつある。
 見張りの兵に会釈して、彼女は細く伸びた一本の通路の奥を目指した。突き当たりの扉には押すと呼び鈴が鳴る仕組みのボタンがある。それを作動させ、別の複数の出っ張りを教わった順で触れた。これが錠の解除方法だという。

「失礼します。お食事とお着替えをお持ちしました」

 ディーナの声に、椅子に座ってうつむいていた一人の女性がゆるく動いた。顔を上げ、口を閉ざしたままディーナに鋭い眼差しを浴びせている。その視線に全く動じず、ディーナも黙って淡々と仕事をこなす。
 女性、ローザ・ファレルはファブール侵攻の際に捕らえた人質だった。ゴルベーザの野望を止めんとする、元バロン国騎士のセシル・ハーヴィ一行に組する白魔道士。ディーナにとっては、名をかつて耳にしたことがあるようなそうでないような、その程度の面識だった。
 やや疲労が顔に出ているものの、それでもローザはため息が出る美貌の持ち主だった。ゆるく波打つ淡い黄色の髪も、それをかき上げる細い指も、色づいてはっきりと形を取る唇も、長い睫毛も、全てが女性の憧れそのものである。ディーナは未だに彼女が戦場に身を投じる軍人だと思えていない。

(…そんなに警戒しなくていいのに)

 ローザの態度は初訪問時から一貫して硬いままだ。彼女の身柄は完璧に守られ、本人も抵抗する様子は見られない。ディーナは内心、少しは打ち解けて会話が出来ないものかと期待していた。敵とはいえ、人間の女性には親近感が湧く。

「不都合なことはありませんか?」
「……」

 ローザが黙ったまま首を振った。

「そうですか…。何か時間を潰せるものがあればよいのですが。次までに探してみますわ」
「えっ?」
「はい?」

 背後から驚きの声が上がったので、ディーナはシーツを畳む手を止めて振り返った。

「ご希望のものがございますか?」
「あ…いや、何でも嬉しいけれど…。あなた、ちゃんと話せるのね」
「?」
「前の人は同じことしか言わないし、話しかけても反応が無くて気味が悪かったから…」
「あぁ…時々、おりますね」

 そこでローザは初めて微笑みを見せた。

「あなた、名前は?」
「ディーナと申します」
「そう…ディーナ、ありがとう」
「……私は職務を果たしているだけですわ。では失礼します…」

 ディーナはそう返し、シーツをワゴンの中に押し込んで出て行ってしまった。残されたローザは眉を下げ、しばらくの間、残念そうに閉じた扉を見つめていた。

(…逃げてしまった)

 ワゴンを押し出し、数歩進んだところでディーナが足を止めた。胸に渦巻く自己嫌悪の思いを落ち着かせようと長く息をつく。いざ本当に気を許した笑みを見せられると、彼女を監禁しているという罪悪感が頭をよぎってしまった。
 いずれ彼女もゴルベーザや配下の魔物によって亡き者とされてしまうのだろうか。しかしディーナは想像することを瞬時に拒んだ。

*

「聞きたいことがある。いいか?」
「っ、カ、カイン様!?」

 日も傾き始め、そろそろ夕食の支度を始めようとディーナが袖捲りをしたその時、いきなり背後から声を掛けられた。厨房にはほとんど誰も寄りつかない。完全に気を抜いていた。
 金の長い髪を揺らしてカインが近づく。ディーナは急いで袖を戻し、しゃんと立ち直して彼の言葉を待った。

「……ローザの様子はどうだ?」
「あぁ…ちょうど、今日少しお話ししたところですわ」

 薄く笑いかける。カインは数回小さくうなずき腕を組んだ。

「やはり、いくらかお疲れのようですが、お体に障る程ではないと思います。それ以外に気になる点はありませんでした。…もちろん、脱走しようという気も」
「…そうか」

 ぽつりと呟かれた彼の相槌は、安堵の意を孕んでいると聞いて取れた。初めて聞く彼の穏やかな声色に、ディーナはわずかに驚き、そして彼とローザの関係を推し量る。

「邪魔したな」

 そう残して彼は音も無く厨房から去っていった。ディーナは無意識に首を傾け、床を眺めながらぼんやり考える。

(会いに行って差し上げては…なんて、言ってはいけないわね…)

 カインがバロンの竜騎士団に在籍していた頃、もしかするともっと以前から、彼とローザは交流があったのだろう。かつての仲間に刃を向け、挙句幽閉した彼の心境はどのようなものだろうか。

(私はもう、誰に何と責められようと平気だけど、あの方はきっとまだそうではないのね。仲間や祖国を切り捨てた時点で思いを馳せるのは辛いだけだし、何より無意味…。どうか、あの方が心の整理を早く終わらせられますように…)

 カインがディーナとは比べ物にならない複雑な思いを持ち、多くの葛藤を経た上でゴルベーザに下ったことぐらい簡単に予想出来る。苦悩などほとんど無いまま身の置きどころを決めた自分が彼を憂うのはお門違いというものだろう。彼女はそう思った。
 それでも、ほんのわずかだけでも共通点を持つ彼を、彼女は気遣わずにはいられなかった。






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