9.

 ディーナはその後数日間伏せていたので知ることはなかったが、獣に喉笛を食い破られた二人と、地下への入り口を見張っていた兵士はその亡骸を庭の一角に晒された。これにより城内に潜む反ゴルベーザ派は動きを封じられ、表面上は統制の取れた日々が続いた。
 ディーナは悪夢にうなされる夜を繰り返しながらも何とか立ち直り、ただ物思いにふける時間が増えた。あの日一度に判明した多くの事柄をひとつずつ整理し、その度よみがえる恐怖に体が震えた。
 ゴルベーザは魔物を従えるどころか、人間を怪物に造り替えているという。彼女がベイガンを始めとする近衛兵団に生理的嫌悪感を抱いたのはこれが原因だったのだ。
 そしてベイガンは、倉庫内に突如現れた狼に似た魔物について、常にディーナの側にいると言った。つまり、あの獣はゴルベーザが用意した護衛に間違いなく、今もどこかから彼女を窺い、起こり得る危険に目を光らせているのだろう。

(ご主人様や私は、ずっと魔物に囲まれて過ごしていたのね…)

 はあ、と深いため息が出る。ゴルベーザの業がもはや人間の域を超えていたことを知り、少なからず衝撃は受けている。けれど、もう何だっていいという気持ちの方が今の彼女には大きかった。

(何が起きたって、どんな目に遭ったって、私の心は揺らぐことも折れることもないわ。だって…)

 未だ会えない主人の姿を頭に浮かべ、彼女の胸が鈍く痛む。
 彼に抱く想いは、使用人が向けるそれをとうに超えているのだから。

*

 絶え間なく足元から響く動力音。微かな振動。すでに慣れたが、いつまでも感じていたいというものでもなく。
 ゴルベーザは飛空挺"赤い翼"の一室で、机上の地図を眺めながら己の判断を後悔していた。

(こうも間が空いてはあれにかけた術も切れてしまっているだろう…)

 彼に仕える侍女、ディーナ。最後に洗脳の禁術を施したのは、部隊が遠征に出るさらに前のことだった。当初の予定ではすでに帰還しているはずだったが、思わぬ収穫を得たため次の拠点の整備を優先させていた。
 ゴルベーザの操る洗脳術にはいくつか種類があり、ディーナがかけられたものは意思を強制的に上塗りする効力を持つ。黒い鴉を白と認識する。全ての質問にはいと答える。指定した相手に無条件に敬服する、等。
 彼女への命は、塗り潰す意識の範囲が非常に広い。それ故、定期的に術者の魔力を体内へ送る必要があった。効力が薄れた今、自我の強いディーナは術から完全に解放されているだろう。その結果。

(もう亡き者、か。惜しいことをした)

 彼女の護衛を務める魔物には、同時に正反対の任も与えていた。ゴルベーザが不在の間、城の敷地外へ逃げ出すことがあれば噛み殺せと。
 かつかつと指先を机に打ちつける。彼は小さく舌打ちした。

*

 広げた本の続きを読む気になれず、ディーナはソファにほとんど横たわるようにして呆けていた。しかし思い直して起き上がり、両頬を叩いて活を入れる。

(仕事が少ないからってだらけては駄目よ。いい加減あの晩のことを引きずるのもやめて、切り替えないと)

 真っ直ぐ立ち直し、スカートやエプロンの形を整え、ディーナは静まり返った部屋をぐるりと見渡した。いち使用人にはあまりにも過ぎた内装。元々客人のための一室を、ゴルベーザの私室に近いという理由で宛がわれていた。

(少し歩いて城の情報を集めてみよう。…あの狼が守ってくれている…のよね?)
「あの…えっと…狼、様?……この間は助けていただきありがとうございました」

 部屋の隅に声をかけてみた。当然返答はない。こちらの言葉を理解しているかも分からない。それでも彼女は自己満足で仕方ないと考えて、礼を述べた。
 気がかりを解消し、彼女は居住区画から中心部へと移動した。すぐに城内が騒然としていることに気づく。

「ようやく赤い翼が戻ったらしいぞ」
(!)
「予定よりずいぶん長かったな。被害が大きかったのか?」
「いや、そんな様子は無さそうだが…」
(あぁ、ご主人様…!)

 ディーナが駆ける。兵士でない彼女は飛空挺の元に行けないため、そこと城内を繋ぐ連絡通路が目的地だ。隊員の注目を受けながら、彼女は通路の入り口で乱れた息を整える。

「ディーナ殿、お久しぶりです」
「あ…お帰りなさいませ。あの、ご主人様は?」
「じきいらっしゃいますよ。自分は残処理がありますので、失礼します」
「はい…」

 鼓動が走った時以上に高鳴っている。変わらぬ姿をただ願う。
 やがて、周りの空気が張ったものになる。奥から特有の足音が聞こえてきた。ディーナの表情がぱっと華やぐ。

「お帰りなさいませ、ご主人様!」

 がしゃ、と足音が止まった。自分に駆け寄るディーナの姿を捉えたゴルベーザは、兜に遮られ誰に知られずとも、確かに両目を大きく開いていた。

「……ディーナ…?」
「はい!あぁ…あぁ…ご無事で良かった…!お待ちしておりました…」

 ディーナは感極まった様子で口元を指先で覆い、眉を歪め、ぽろりと一粒涙を流した。深い深い漆黒の鎧がこの上なく彼女を安心させる。
 そんな彼女と対照的に、ゴルベーザは冷ややかな視線を落としていた。

(…どういうことだ?)

 ディーナが涙を拭い、もう一度ゴルベーザに眼差しを向けたのを見計らって、彼は彼女の顎から首筋にかけてを片手で掴んだ。

「あっ…!?」
(……私の魔力の気配が無い。術は解けているはず…だがこの態度は何だ?何故まだ生きている?)
「う…」

 無意識に力んだせいで、ディーナが小さく呻く。ゴルベーザは気づかず、さらに思考を巡らせる。
 薄れない人格、落ちなかった料理の腕、鮮明な会話、一度だけ疑った良すぎる術との相性。
 それらが、ひとつの結論を導き出した。

(まさか…最初から退けていたというのか、この私の力を…!?)






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