8.
その刹那。
ひゅ、と風を切る音が鳴り、小刀を持った兵士が"何か"の体当たりを食らって吹き飛ばされた。壁際の棚が粉砕し、同時に発生した騒音の後に聞こえたのは、荒く呻くような息遣い。
「な、何だっ!?」
残った兵がとっさに剣を構え、暗がりの中襲撃者を必死に探す。再び風が鳴いた。
ディーナの眼前に、喉元に大きな塊が刺さる兵士の影が広がった。兵士は悲鳴も上げず倒れ、そして勢いよく血を噴き出した。
「あ…あ…」
ディーナは目を背くことも出来ず、全身を震わせて放心したまま死体となった兵士を見つめていた。その上に乗っていた塊が淡く発光し始める。
そこでようやく、兵二人を襲ったのは四本足の獣だということが分かった。それはどこからともなく現れて、一撃で獲物を噛み千切ったのだ。
狼の姿によく似た獣は、金色の鋭い目をディーナに向けた。彼女は喉を引きつらせ、少しでも距離を取ろうと弱々しくもがいている。しかし、獣が彼女を襲う気配は無く、ただその場に座っているだけだ。
不気味な静寂を破ったのは、第三者の声だった。
「ディーナ殿?開けますよ?」
「!」
重い音を伴って、倉庫の入り口が開かれた。明かりが差し込み、ディーナからは第三者の姿が、第三者からは倉庫内の惨状が露わになった。
「おやおや、これはこれは…」
「ベ、ベイガン様…」
「ふむ、一見したところ、あなたはそこの兵士に捕らえられそうになり、そっちの獣に助けられた、と。合っていますかな?」
ベイガンは扉に体を預け、呑気に憶測を語る。動揺した様子は一切無い。
まるで、ここに入る前から分かっていたかのような。
ディーナはにこにこと目を細めるベイガンの気味の悪さに耐えられず、目線を外して地面へ向けた。そして、彼の足元から伸びる影を捉え、ますます戦慄する。
影が、この男の形を取っていない。両腕の先は手の甲でなく、指でなく、長い舌を出す蛇の頭に間違いない。
「あ…あな、た、は…!?」
「ん?あぁ…ようやく気づいていただけましたか。いやね、実は誰かに自慢したくてたまらなかったのですよ。魔物に生まれ変わったこの身体を」
ベイガンの口が大きく歪む。その隙間から、しゅるりと真っ赤な舌が現れた。そして歪な笑顔のまま彼は続ける。
「いやしかし、怖い目に遭わせてしまって申し訳ない。まぁ、結果こちらは反乱因子をあぶり出した上に始末まで出来て、助かったのですがね。感謝していますよ」
こつこつとベイガンは歩み、血みどろの死体脇を涼しい顔で通り抜け、ディーナを見下ろした。
恐怖が喉奥に張りつき、息すらまともに吸い込めない。
「そんなに怯えないで下さいよ。これが常に側にいたのでしょう?魔物なんて慣れたものじゃないですか」
(え…!?)
「さ、腕を解いてあげましょう」
獣の口に咥えられていた血濡れの鍵を取り、彼はディーナの拘束具を外す。彼女はくたりと体中の力を抜き、ややしてから気力を振り絞って身を起こした。これ以上ここにいてはいけない。逃げなければ。
「後はこちらにお任せを。それと…このことはくれぐれもご内密に」
「……」
その言葉に反応せず、彼女はよろよろと歩んでいく。廊下の壁に手をつき、足を引きずるようにして、それでも一歩一歩血の匂いが充満する倉庫から離れていった。
残ったベイガンが一人呟く。
「さすが、人のままゴルベーザ様に従うだけのことはある。…行け」
彼の命を受け、獣は元通り闇に溶けてディーナを追った。
せり上がる嘔吐感を何とかこらえながら、ディーナはやっとの思いで城内の居住区画まで戻ってきた。しかし、辿り着いたのは彼女の寝室でなく、ゴルベーザのそれ。
ドアを閉じた音を合図に、彼女は崩れ落ち、緊張の糸を切ってひたすら泣いた。
「うっ、うう、うううぅ…!」
(ご主人様…ご主人様…!あなた様に、お会いしたいです…!)
彼女が唯一頼れる主はまだ戻らない。
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