ひんやりと冷たい床の上、正座する俺をそうそうたる面々が取り囲んでいる。
静雄さんに門田さんに新羅さんに首無…まさに池袋の奇人変人大集合って感じだ。後ろでは帝人と杏里が心配そうに俺を見つめている。異様な光景だけど俺は別に何かやらかして糾弾されているわけではない。むしろその逆だ。

「紀田、もう一度考え直せ。本当にいいのか?」

門田さんの瞳は真剣だ。そりゃあそうだろう。なんていったって俺は、

「本っ当に臨也と結婚するのか?」

そうなのだ。自分でもどうかしてるとは思うけど、俺は臨也さんと結婚するのだ。左手の薬指にはその証が存在を主張している。

「はぁ…そうみたいなんですよね」

事実は小説より奇なりってやつを、俺は今まさに体感している。臨也さんと結婚なんて本当に悪夢みたいだ。現実だけど。

「お前…あの野郎に弱みでも握られてんのか…?」

低く唸るような静雄さんの声。

「弱みって…」

「じゃなきゃ有り得ねぇだろ、あんなノ……っ、野郎と!!」

いつもの様にノミ蟲と言わないのは俺への配慮なのだろうか。優しい人だなぁと少しだけほんのりしながら後ろをちらっと見ると、真面目な顔した帝人と目があった。そう、帝人たちもそれが心配だったのだろう。だから臨也さんと結婚すると言った瞬間に問答無用で俺をここまで引っ張ってきたんだ。
だから俺は言ってやる。

「や、別に弱み握られて結婚するわけじゃないっすよ」

「ならなんで…!!」

なんで、と言われましても。

「うーん、出来たものは仕方ないというか…」

ぴたり、と。
部屋の中の時間が止まった気がした。

「えーと紀田くん、出来たっていうと…」

ひくりと口元をひきつらせながら新羅さんが尋ねる。

「あーその、」

「それはもちろん、俺の子どもだよねぇ」

答えたのは俺じゃなかった。
俺の前に立つ静雄さんたちの後ろから噂の臨也さんがひょっこり顔を出す。どうしてこの人は…思わず顔が歪む。案の定静雄さんから殺気が立ち込めるのがわかった。

「臨也、てめぇ…」

「やぁシズちゃん。相変わらずご機嫌ナナメだねぇ」

どうしてこの人はいちいち静雄さんを挑発するのだろう。痛む頭を抱えたそのときだった。ふわりと、浮遊感。驚いて顔をあげると目の前に黄色いヘルメット。俺は首無に抱き上げられていた。

「え?え?」

わけもわからずおろおろしているとソファーの上にそっと降ろされた。

『すまなかった、大事な身体なのに冷たい床に座らせてしまって。身体は冷えてないか?膝掛けはいるか?』

「あ、ありがとうございます…」

久々に触れた真っ当な優しさに顔が熱くなる。大事な身体、か。そっとお腹に触れる。まだ全く実感は沸かないが、ここには確かに新しい命があるのだ。

「紀田さん」

感傷に浸っていると頭の上から声がした。顔を上げれば杏里が俺を見つめている。

「杏里?」

「紀田さんは…幸せですか?」

思わず息を飲んだ。杏里の瞳は真剣で、いつもの軽口が許されないことを知る。



幸せ。
俺は幸せなのだろうか。










臨也さんの子どもがお腹にいるとわかったとき、俺は東京を離れて一人で生きる決心をした。臨也さんが子どもを喜ぶとは思えなかったし、あの笑顔で堕ろせと言われるのが恐かった。
だったら俺は独りでこの子を育てる。子どもと二人で生きていく。
そんな俺の決意も強がりも臨也さんは全部ぶち壊した。

「正臣ちゃん、結婚しようか」

まるで『ちょっとそこのコンビニで水買ってきてよ』というような軽さで言われたその言葉に、俺は口に運ぼうとしていた箸を止めた。
テーブルの上には俺の作った料理が並んでいる。いつもより少しだけ豪勢なのは終わりの見えたこの人との食事を惜しんだ乙女心によるものだ。我ながら見事な腕前。このカレイの煮付けなんて絶品で、

「ちょっと正臣ちゃん、勝手にトリップしないでよ」

「あ、えぇと、すみません、なんの話ですっけ?」

「だから、結婚しようって」

からん、と手から箸が落ちた。
けっこん。
けっこんけっこうこけこっこーってか。あれ俺意味分かんない。
臨也さんはもっと意味分かんない。

「何、言って…」

「んー?やっぱりさ、こういうのってちゃんとした方がいいでしょ?子どもだって産まれるわけだし」

びくりと身体が震える。咄嗟に手で腹を隠してしまった。

「臨也さん、知って…!?」

「知ってるよ」

臨也さんの赤い目が俺を見ている。反らしたいのに反らせない。反らすことを許されない。

「俺を誰だと思ってるの。全部知ってるよ、君のことなんて。今妊娠6週目だってことも、堕ろすかどうか迷ってやっぱり堕ろせなかったことも」

馬鹿にしたような口調。どうして知って、なんて疑問はもう沸かなかった。むしろ何故俺は隠せると思ったのだろう。相手は臨也さんなのに。

「それから黙って俺の前から消えようとしたことも、ね」

ひくりと喉が鳴る。
色々な感情で頭はぐちゃぐちゃで、逃げ出したいのに指一本すら思い通りに動かなかった。
臨也さんが立ち上がる。
近付く。
俺は黙って臨也さんを見上げる。

「馬鹿だねぇ、正臣ちゃんは。ホントに馬鹿だ」

呆れたように臨也さんが笑う。だけど今度は馬鹿にした感じではなかった。
そのまま臨也さんが膝を着く。俺は上げていた視線を降ろすことになった。
臨也さんは俺の左手を掴んで、

「ついでにもう一つ教えといてあげるよ。俺は君の危険日だってちゃんと知ってる。つまりはそういうことだよ」

指輪を嵌めた。ご丁寧に薬指だ。信じられない。
何がって、全部がだ!

「…全部、最初から…」

「こんなもんが無くたって君は俺のものだけどね。君には理由が必要でしょ?だから全部俺からのプレゼントだ。良かったね、これからもずっと俺の側にいられるよ」

晴れ晴れとした臨也さんの言葉に涙が溢れた。



だけどそれは、怒りのせいだけじゃなくて、












「今、幸せかって聞かれたらわからない」

杏里の瞳を見つめて言う。

「でも幸せになりたいって思う。…臨也さんと一緒に」

これは俺の本心だ。だから臨也さんの顔は見れない。臨也さんに言ったんじゃない、杏里の質問に答えただけ、そう言い聞かせないといけないくらいに恥ずかしい。

「そう、ですか」

ふわり、と杏里が微笑んだ。女の俺でも見惚れるくらいに可愛い。

「おめでとう、紀田さん。幸せになって下さいね」

ぎゅっと抱きしめられて心臓が跳ねた。顔が紅潮するのが分かる。だって初めてだ、おめでとうだなんて。
じわりと涙が滲む。





嬉しい、と。

涙を流したのは二回目だった。



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