新婚とはいえ、事情が事情かつ相手が相手なので砂を吐くような甘い生活とは無縁だった。結婚して変わったことといえば、俺の名字と一緒に住むようになったことくらいだ。前者はあまり名前を書く機会が無いうえに未だに『紀田』と呼ばれることが多いものだから実感が沸かないし、後者に至っては結婚前から週4くらいで臨也さんの家に泊まっていたものだから大して感慨深いものでもなかった。
―…そもそも俺は臨也さんが何故俺と結婚しようと思ったのかがいまいち分からない。臨也さんはあの日、俺に理由をあげると言った。臨也さんの言おうとしたことは理解出来る。俺は臨也さんの側にいたいと願うのと同じくらい、若しくはそれ以上に臨也さんから逃げ出したかった。そう思わなければいけないのだと頑なに信じていた。それは折原臨也の人間性であったり、彼が俺に与えた痛み(それはまだ17年しか生きていない俺にとって過去と言い切るには新し過ぎる記憶だ)だったり、諸々の理由がある。それら全てを無かったことにして臨也さんの側にいる、それは裏切りではないのかと…誰に対する裏切りなのかは分からないが、そう思っていたのだ。

臨也さんの言うところの『理由』にそっと触れる。俺はこの子を理由に臨也さんの前から消えようと思った。だけど今なら分かる。この子がいる限り俺は臨也さんから逃げられないのだ。結局のところ俺は浅はかで、臨也さんは嫌味なくらい全部お見通しで、だからこそ今がある。たくさんの理由に縛られた俺は救われた。なんだかんだ言って俺は臨也さんを愛しているのだ、おそらく、多分、きっと。少なくとも一緒に幸せになりたいと願うくらいには。

―…なら、臨也さんは?

―…臨也さんの『理由』は?

微かな脹らみしかないその場所を撫でる。俺にとっての理由であるこの子を、果たして臨也さんは愛してくれるのだろうか。この子は俺の子じゃない。俺と臨也さんの子なのだ。
…それ以前に臨也さんは俺のことを愛しているのだろうか?

ずぶずぶと沈んでいく思考を振り払うように首を振った。考えたって仕方ないことだ。もう俺は決めたのだから。
夕食の準備をするべくエプロンを身に付ける。これも変わらないことの一つだ。今日は寒かったからシチューにしよう、と材料を用意する。鍋を取ろうと戸棚を開けた。高い位置にあるそれは台を使わないと届かない。背伸びすればなんとかならないだろうかと手を伸ばすと、ぽんと肩を叩かれた。振り返るとコートを着たままの臨也さんがそこにいて、全く気付いてなかった俺は驚いてしまった。

「おかえり、なさい」

「ただいま。ちょっとどいてね」

言われるままに半歩下がる。スッと手を伸ばした臨也さんが鍋を取り、コンロの上に置いた。

「あ、ありがとうございます…」

突然の臨也さんの行動に呆然としながら、口は勝手にお礼を言っていた。どうしちゃったの臨也さん。
パチパチと目を瞬かせていると臨也さんが一つ、ため息を吐いた。

「横着しちゃ駄目だよ正臣ちゃん。転んだりしたらどうすんの?俺の赤ちゃんがそこにいるのにさぁ」

幼い子どもをたしなめるようなその口調が、眼差しが、思いの外優しかったので。






俺も、それから俺と臨也さんの子どもも、案外愛されてるんじゃないかなぁと、そう思ったわけです。









「…なんてことをさ、紀田くんが言っててね。不憫じゃないか、まだ花の17歳の女の子がだよ?そんな些細なことで愛を実感するだなんてさ」

芝居がかった仕草で新羅が天を仰いだ。本日彼の愛しのセルティは出掛けており、彼女と入れ代わるようにやって来た臨也とティータイムと洒落込んでいる大して上手くもない茶を啜りながら、話題は先日彼のもとを訪れた新妻である少女のものになった。

「僕とセルティみたいになんて無理難題は言わないけどさぁ、もうちょっと分かりやすく愛してあげてもいいんじゃないの?」

セルティ以外は基本的にアウトオブ眼中であるはずの新羅が殊更面倒な相手である友人の夫婦生活に口を出そうと思ったのは、この話をした時の少女があまりにも痛ましい表情をしていたためである。
暗闇の中で、たった一筋の光を希望として崇めているような。
本来なら溢れんばかりの陽光を浴びているはずの少女が、である。簡単に言うならば新羅のそれは同情であった。歪な愛に絡めとられた少女への。
勿論、心から少女の身を案じ、新たな命の誕生を心待ちにしているセルティがいなければその同情だって沸かないのだが、ともかく。

「…あの子、そんなこと言ってたの?」

そんな想いから友人としての細やかな忠告を行った新羅は、そこで漸く臨也の顔を見た。問いかけに頷く。臨也はそう、と呟いて口元を手で覆った。

「もう、なんなのあの子…馬鹿なの?なんで分かんないかなぁ、俺があんな子どもを結婚までして縛り付けてる時点で分かるでしょ。理由なんて一つしかないじゃない」

ほとんど独り言に近い音量で呟くと、唐突に立ち上がった。新羅の話している間全く口をつけていなかった冷めた茶を一気に飲み干すと、くるりと背を向け歩き出す。

「帰るよ。ごちそうでした」

そのまま扉の向こうに見えなくなった臨也を見送った新羅は、ずれかけた眼鏡を直し、呟いた。

「…余計なお世話だったかな?」

思いの外、少女は愛されているらしい。愛の形にも色々あるということか。一人納得した新羅の思考は、まだ帰ってこないセルティへと切り替えられた。




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