「臨也さん、臨也さんちょっと、」
呼ぶ声と体を揺すられる感覚に意識を浮上させた。うっすらと目を開ければ結んだ焦点の先にはエプロン姿の正臣くん。
「なに…」
エプロンプレイ、という単語が覚醒しきらない脳裏に過ったのあたり昨日の夜を引き摺っている。そういえばあれだけヤったのに正臣くんは元気だ。認めたくはないけど若さの違いってやつかなぁ。
「朝飯なんですけど、卵どうします?」
「あー…目玉焼き…」
「わかりました」
一つ頷いて正臣くんは出ていった。閉まる扉を見届けてから起き上がる。正直もう少し寝ていたかったが、もうすぐ朝食が出来るのだろう。どうせまた起こされるならさっさと起きてしまうほうがいい。
顔を洗ってからリビングの扉を開けると、コーヒーの薫りが漂ってきた。朝のニュース番組の音と水の流れる音。
「臨也さん、起きたならこれ運んでください」
蛇口を捻り、エプロンで手を拭きながら正臣くんが俺を呼ぶ。言われた通りにトーストの乗った皿を運んで椅子に座れば、テーブルの上にはすでにサラダと目玉焼き、ボイルされたソーセージが並んでいた。理想的な朝食だ。
「お待たせしました」
正臣くんがコーヒーを俺の前に置き、自分も向かい側に座った。
いただきます、と一言言って食べ始める。
つけっぱなしのテレビから天気予報が流れている。それを見た正臣くんが『いい天気なら後で布団干すかなぁ』なんて主婦みたいなことを呟いた。
すごく、不思議な気分だ。
「不思議だなぁ」
「?何がですか?」
ぽろっと零れた言葉は正臣くんに拾われた。マーマレードをのせたトーストを頬張りながら俺を見るその顔は、出会った頃より少しだけ大人びたように思う。
「君がこうして当たり前みたいに朝食を作ったりしてるのが、さ」
つん、と目玉焼きの黄身を箸でつつく。俺の好みに合わせて固めに焼かれたそれ。かかっているソースだって何も言わずに俺の前に置いてあった(ちなみに正臣くんは目玉焼きは半熟醤油派だ)。
俺の好みを把握して、料理を作って、向かい合って一緒にそれを食べる。
あの日絶望と憎悪で染まった眼差しを俺に向けたこの子が、だ。
俺の言いたいことが解ったのだろう、正臣くんは眉を寄せた難しい顔になった。
「…そんなの、俺だって不思議ですよ」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから、です。でもまぁ、それについては深く考えないようにしてるんで」
「へぇ?どうして?」
投げかけた俺の疑問に、正臣くんは苦い顔をする。君が飲んでるのは砂糖入りのカフェオレじゃなかったっけ?なんて余計な皮肉は挟まない。時間は大切だ。
「…突き詰めると、俺にとって望ましくない答えが出てくるっていういやーな予感がビシビシするんですよ。だから考えません」
君子危うきに近寄らずってやつです。
正臣くんは一息で言うと目を伏せてカフェオレを啜った。
(…これは面白い)
正臣くんにとって望ましくないことは俺にとって望ましい可能性が高い。さっきから全く俺と目を合わせようとしない正臣くんの態度といい、とっても興味がある。
それならば。
「じゃあ、俺が追求してみよっかな」
「はぁ?」
「君が目を逸らして逃げているその答えをさ。興味あるからねぇ」
きょとんとした正臣くんににっこり微笑んでみせる。
この後の展開は予想に容易い。『余計なことしないでください悪趣味野郎』なんて可愛くない悪態をついて噛みついてくるんだろうなぁ。正臣くんは本当に分かりやすくて可愛い。
―…なんて思っていたのだけれど。
「…そうですか。頑張って下さい。分かったら俺にも教えて下さいね」
予想外の反応だった。
困ったように、しかし柔らかく正臣くんが笑う。
「そしたら俺も、何かが変わるだろうから」
予想外の正臣くんの反応は、新しい感覚を呼び起こす。
この感覚の名前は、
何かが変わる
遠くを見つめるようなその表情から何故か目が離せなかった。
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