〔5〕
ぶつかると思った感触はいつまでも来ないまま、クロロは落下する感覚に見舞われ、目を開けた。
トン、と床に着地して、現状を確認する。
どうみても、先ほどまでのホールではない。
担ぎ上げた女が、肩の上で振り返りながら、呆然と口を開いた。
「なーんじゃこりゃ……」
辺りに人がいるのは変わりないが、先ほどとは打って変わって、それらはすべて一般人だった。
リゾートファッションに身を包んだ人間たちは、大体が片手にパンフレットを持って、広い部屋の中を歩いている。
二人が落ちた場所は、赤い展示用ロープで囲われていた。ロープの前に置かれた小さな案内板には、オダルの玉座、の説明が小奇麗に記されていた。
玉座というわりに、椅子はないな。
クロロが後ろを振り返ると、背後の壁には一面に枝ぶりのいい木が描かれている。大木は確か、オダルで統べる者を意味するのだったか。
「なんでこの部屋に、こんなに人がうろついてんのさ!?」
肩から下ろした女は、部屋を駆け抜け、壁を切り取っただけのような簡素な窓から飛び出さんばかりに外を覗いた。
クロロもロープを跨ぎ越え、部屋の壁にかかっていた、大きな館内図を見つけて歩み寄る。
《イトカナ王宮。築城972年、徹底した皆兵制度で強国となるも、わずか三百年で歴史上から名を消した軍国オダルの、時の第三代エラバ帝により建設、その後増築を繰り返し、今の形となる……》
「……ずいぶん遠くまで飛ばされたな」
イトカナ王宮は、パタラバ砂漠から直線距離でも五百km以上離れている。
祭壇の壁と、王宮の壁が移動の念でもかけられていたのか。
城に隠し通路は珍しくないが、念の道というのはクロロもはじめてお目にかかる。
少なくとも七百年前の代物だろうに、よく健在しているものだ。
「ねえちょっと、刺青さん!」
「俺の名前はクロロだ」
公共の場で、とんだあだ名で呼んでくれた女のほうを向くと、説明してほしい! といわんばかりの顔で、窓の外を指差していた。
「その前に一つ聞くが、お前は誰だ」
「誰って、さっきアイカも呼んでたじゃんか? 私の名前はビビ」
「名前は分かっている。生まれた年、一族、立場、その他もろもろだ」
「んー?」
相手は眉間に皺を寄せ、いかにも不思議そうに首をかしげた。
クロロは部屋を横切って、ビビの横まで来ると、窓の外を見る。
広くない庭園の向こうには、そこそこのビル群があって、その間を車が走っている。ごく普通の地方都市の光景が広がっていた。
「私が生まれたのは、1264年。拾われっ子だから一族はなくって、ええと立場ってーと、記録官? ちなみに先帝派だし、アイカに玉座を継がせたくなくて、タタの書先手奪取を決行。結果、クロロに救われ今に至る、とこんなもん?」
「…………」
真顔のまま、クロロはビビを見下ろした。1267年生まれを主張した彼女は、「何か質問は?」とこちらを見上げてくる。
“タタの書先手奪取を決行”と“結果クロロに救われ今に至る”の間に、もっと何かいろいろ大事なことが挟まっているように思うのだが、本人もまだそれを把握できていないらしい。
真っ黒な髪に、一直線に切られた前髪の下から、意志の強そうな黒の双眸。肌は健康的な小麦色をしていて、背丈は標準。
年はクロロとさほど変わらないように見え、もしかしたら同じ年なのかもしれない。
旗の房飾りを、二十も束ね合わせたような量の結った髪や、使い古された薄い革サンダル、腰高に帯で締めた粗い生成りの民族衣装は、確かに現代人には見えない。
しかしクロロが気になるのはビビがかけているモノクルだ。眼鏡の歴史は十三世紀半ばからというが、かたや、片眼鏡の登場は十九世紀と歴史が浅い。
本当にビビが十三世紀後期の人間とするにはいささか矛盾を感じるが、モノクルのレンズ越しに見える顔の輪郭にブレが無く、度数はないのが知れる。
一般の片眼鏡とは、また違うのか。だとするならやはり、彼女は七百年前のオダル人なのか。
「……お前は1264年生まれだといったが、今は1995年だ」
ぱっかりと、見事なまでにビビの口が開いた。
たしか、ウブドラでガミタとかいう一族の男が、700年経っているというようなことを言っていたと思うのだが、この女は聞いていなかったのだろうか。
「アイカとかいう男と何をどう争っていたか知らないが、俺が見たときにはお前は、祭壇前の階段に膝をついた状態で止まっていた。アイカともう一人の女、それからウジュラか? あの三人と共に、時間が止まっていたみたいだな、七百年」
「んなあほな……」
「それで、あの壁とウブドラは繋がっているのか?」
クロロが指し示した大木の描かれた壁を、ひどく動揺の残る顔のまま、ビビが見上げた。
「いや……あれは向こうからこっちの一方通行。タタの書を手にいれた人間と、それに連れられた人。後は王様しか来れないね」
旅団員の回収はできず、今ウブドラで起きているであろう混戦に、クロロが参戦することも出来ないわけだ。
あてが外れて、クロロはしばし思考した。
あの場にいた、アイカを含める多数の念能力者を思い出しても、まともに相手をするには分が悪すぎる。
第一に数が多い。そして敵の腕がいい。
対してこちらは、ノブナガやウボォー、マチの武闘派を欠いている。
―――厳しいな。
「とにかく、お前の逃走のための仕事は果たした。タタの書を渡してもらおうか」
「おや、クロロよ。もしかして案外にせっかちだね? これは確かにタタの書だけど、今の段階じゃ白紙みたいなもんよ? 」
クロロの眉間の渓谷が、一気に深くなった。
ひらひらと、竹簡を振ってビビは一点の曇りもない笑顔を浮かべる。
「タタの書をほしがった割りに、よくはご存じないと見受ける。タタの書は王の絶対権限、そりゃあ盗賊の君が欲しがるのは分かるけど、これは権力であると同時に試練だよ。オダルの一族でもない君が、この書の存在を探し当てた実力は認めるけど、調べが甘い甘い」
かかか、と笑ってビビは、書をあっさりとクロロに渡してみせた。
受け取って開こうとしたが、それはぴったり巻きついて開かなかった。
何かしらの封印が施されているのは明白であり、凝で見てみればそれが念で封じられているという単純な話ではないのが分かった。
封印と書は一体であり、下手に除念でもすれば、この書もろともお陀仏になるようだ。
ほかに分かったことといえば、これが竹簡でなく、玉簡だったということくらいか。
「―――試練とは?」
「その書を開くための、いくつかの鍵がある。それを手に入れなくっちゃね。ま、タタの書は報酬にあげるという約束だし、私はそれをアイカに渡したくないしで、その試練のクリアは請け負うけど、それまではきっちり私のために働いてもらうよ。そういう雇用契約だったね?」
あの場から逃げられれば契約終了というアテが外れたクロロは、漫然とビビを見下ろしたが、完全な状態のタタの書を手に入れようと思えば、にこにここちらを見つめる相手との約束を反故にすることは出来ないと承知するよりなかった。
あとでパクノダの力を借りることも含めて、ひとまずは了承するしかない。クロロの見たところビビが念能力者ではなさそうであるから、この約束に拘束力もない。
展示室を飛び回り、展示品を覗きまわりだしたビビを見るともなしに観察しながら、クロロは口元に手をやる。
七百年前のオダル人は四名。それは三つに分かれ、現代のオダルの末裔は、実力確かなほかの三名の古代オダル人の配下にそれぞれ付いた。
対して、こちらのキングは、念も使えぬ、頼りになるのかならないのか分からない女。参謀の素養があるようにも思えない。しかし扱いやすくもない。
ガラスケースの中を次々覗いていたかと思えば、その内のいくつかを豪快に壊しはじめたビビを見て、図太さだけはある、と個人的には大した加点でもない評価をつけた。
こまごまとしたものを幾つか抱え、そばに戻ってきたビビに、ため息をついてタタの書をつき返し、クロロは大木の壁画を見上げる。
「仲間が心配?」
不意に言い当てられて、クロロは振り返る。ビビが両手の荷物を難儀して整理しながら、こちらににっこり視線を向けていた。
「大丈夫よ。たぶんね」
「根拠は?」
「アイカとウジュラが技を使えないから、かな」
こともなげに言ってみせたビビは、快活に笑った。
「封じてやった、ちょっとの間だけ。しばらくは、自分の十八番は使えないねえ。アイカの性格なら、たとえ勝ち目の方が多くても、自分に不備があったら勝負しないだろうし、そしたらアイカに付いたガミタは従うし。ウジュラはこのタタの書が目的だから、あそこに留まる意味は無いし」
「封じた? お前がか」
「うーん。そういう仕掛けを作った奴がいてね。私はそれを仕掛けただけ」
「もう一つ確認しておく。お前は念能力を使えるのか」
ビビは、たしかに念能力の存在を知っているし、決してそれは浅識ではない。
だが、きょとんとしてこちらを見るビビに、オーラは見えない。わずかにもその気配もないのだ。
「念能力? なんだ?」
「お前の時代では神通力と呼んだんだったか」
「ああ! てんで私はからっきしよ。力がある君なら、聞くまでも無く一目瞭然じゃなくってさ?」
けらけらと笑うビビは、嘘を言っている様子はない。
だがそれなら、能力を封じ込めたという、そのやり口はどういうものなのか。
詳しく話を聞きたいところだが、今はどうにも時間がないようだった。
制服に警棒を持った男が二人、部屋の入り口に姿を現している。
「さて。お前がさんざん公共物を荒らしたおかげで、警備員がきた。」
「おや、衛視? 一般人がうろうろしてるから、いないもんだと思っていたよ。うわあ、ほら見てごらんよクロロ、あの衛視の腹! どっぷりして中に何が入ってることか。弱そうだし、これじゃとても王宮を守れやしない!」
「なら、お前が行って倒してこい」
「なにを言うの、王宮の衛視を痛い目に合わせるわけにはいかないじゃない。さあ盗賊、ここから逃げようさ!」
手に入れた諸々を抱え、邪気無くにっこり笑ったビビに、そのときクロロはなぜか、この一件が容易には片付かないという予感を覚えた。
意図せず十字架を背負ったような、手足に錠を架せられたような。
己の手に負えるかどうか、一瞬完全に図りかねる底知れない感覚を覚えて、不意にクロロは目の前の念すら使えない女を、確かにその瞬間、怖いと思った。
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