話
最後に五分咲きの桜を目にしてから十日後。
私は、現世から戻ってきた。
もう桜はとっくに満開を過ぎて、少ない桜の花はもう地面に落ちているのだろうと、すぐに見に行く気にはなれなかった。
報告書の提出のため突門から隊舎に直行し、書類を書き上げたのは定時を大きく回っていた。
私は荷物を手にして、現世任務に疲れた体を休めるため、家へ向かった。
わざわざ遠回りをする意味もないから、あの抜け道を通る。
途中まで歩いて、ふとあの桜の近くまで来て足を止めた。
早く帰りたいけれど、一年間日課のように見守り続けてきたあの桜は、隊長のことなどは抜きにしても、やはり単純に気になる。
もう、咲いていないことは分かっているけれど。
暗闇がせまる中、少し迷ったけれど私は木陰へと足を向けた。
足元が不確かな中、半分勘を頼りに道なき道を進む。
そうして、ようやく開けた場所まで来て、顔を上げた私は固まった。
最初に目に飛び込んできたのは、深くえぐられた地面と、露出した土だった。
その意味がすぐには分からず、桜を探そうとして、ちょうど穴があいたそこが桜があった場所だと気づく。
「え……」
暗闇と、久しぶりに来たのとで道を間違えたのかと思った。
それでも最初に訪れたときと違って、自分は一年もここに通い詰めたのだ。多少の暗闇や、十日程度時間をあけたくらいで場所が分からなくなるはずもない。
穴に歩み寄り、見おろすとそれは人の手によるものだと知れた。
ただ穴を掘っただけではない。おそらく、桜を誰かが持っていったのだ。
ゆっくりと腰をおろす。
こんなに大きく穴が開いているのなら、根をちゃんと掘り起こしたのだろう。
どこか別の場所に植えられたのなら、まだ生きているはずだ。
それなら、それで……
「よかったのかな……」
ぽつりとつぶやいてみたけど、途端に強烈な虚無感に襲われた。
なんだか、言葉にもならない。
桜を失ったというより、桜に関わっていた私の日々も気持ちも何もかも、知らない内にごっそり持ち去られてしまったような気分だった。
ひざを抱えて穴を見おろし、片手をそっと伸ばして土に触れる。
ぬるい温度とかすかな湿気が指先に伝わる。
「どうしてかなぁ……」
あてもなくただ言ってみた自分の声に涙がまじっているのが分かって、むりやり大きなため息を付いてかき消そうとした。
心がとても、寒かった。
それから私は、一年前のいつもの日常に戻った。
桜の元に通うことがなくなって、隊舎と宿舎を往復する毎日。それは驚くほど単調で、色を無くしたように何の変哲もない日々だった。
どちらかといえば、桜に通わなくなったのではなく、通えなくなったと言ったほうが心情的には正しい。
行くだけなら、もちろん出来る。けれど行ってみてもあの場にあるのは虚ろな穴だけ。誰かに行ってはいけないと言われるよりも、その光景は私に制御をかける。
以前はそれが普通だったはずのこの日常に、隙間を感じる。それは桜の元に通う時間そのものの隙間以上に、喪失感を覚えた。
過ぎていく時間に、重みがない。
この心のむなしさがあの小さな桜ひとつに端を発するのだと思うと、今になってあの桜がとてつもなくかけがえのないものに感じた。
桜がどこに行ったのか。
それは案外にすぐ、耳に入ってきた。
最後に私が桜の元へ訪れたとき後を付いてきた先輩が、好意を寄せる下級貴族の別隊の席官に桜を教えたらしい。
そしてその人が面白いと言い、桜の木を自宅に持ち帰ったようだった。
最初、私はそれを噂話で聞いた。しばらく経って、先輩からも直接聞いた。
先輩は楽しげにその話をしていたし、私もいまさら悪気があったわけではない彼女に対して、ぶつける怒りも持ち合わせていなかった。
ただ一瞬、心をかすめたのは、私が隊長のために桜の世話をするのだと自覚したのと似た感情で、あの綺麗ではない感覚だった。
桜はただ咲く。
けれど私も先輩も、それをそのまま愛でることはせずに、別の方向へと思いを向けてしまった。
先輩は貴族の席官に。私は、隊長に。
そんな人間の勝手な思いで、桜は己が根付いた場所から引き離された。
結局、あるがままの桜を悦び、純粋に愛でたのは朽木隊長だけだった。
先輩から桜の行方の話を聞いたその日、私は久しぶりに桜のあった場所へと足を向けた。
何のことはない気まぐれ。ただ、桜が無くなったことを知ったあのときは振り切るように立ち去って、あの掘り返された穴を思うたび心が沈んだ。
だから、埋めよう、と思った。
せめて最後に見るあの場所の光景が、無惨な跡ではなければ、ここを思いだしても少しは楽でいられるだろうと思ったからだった。
仕事帰り、訪れたその場所は、私の頭に描いていた状況、そのままだった。
周りの草丈が少しのびているくらいなもので、掘り返された穴は相変わらず悲惨にも思える姿で口を開けている。
ため息を付いて、私は穴の前にしゃがむと荷物を横に置く。素手で周りの土を集めて穴へと投じた。
ただ淡々と繰り返す。けれどそれは、同じように淡々と繰り返されていた仕事だけの毎日よりもはるかにわたしの心に重みを与えた。
「…情けないな」
自分の気持ちの向かう場所のない日々が、どれだけ退屈でつまらないものか。
でもそれは、今のわたしには当分、見つけられそうもないものだった。
「ようやく会えたか」
背後からの声。
聞き覚えのある柔らかな低音と、繊細な霊圧。
私はしゃがみ込んだままゆっくりと振り返った。
立っていたのは、もちろん想像通りの麗人。朽木隊長が少し眉根を寄せて、木陰からこちらに歩んでいた。
そこまで驚いたわけでも、頭が真っ白になったわけでもなかったが、自分がどうするべきかということを考え忘れて、隊長が横に立つまで間抜け面で私はぼうっと見あげていた。
隊長が眉根を寄せたまま穴を見おろしているのを見て、はっと我に返った私はぎこちなく立ち上がる。
所在なく隊長の隣に立ったままでいたが、言うべき言葉も思いつかず自分の土で汚れた手を見おろしていた。
「現世任務だったそうだな」
隊長が口を開く。
あの桜がいちばん美しく咲いたであろう時のことと察して、私は小さな声で返事をした。
「すまないことをした。そなたの名を知っていたら、駐在任務の任命書類には判を押さなかったものを」
「いえ……それは公私混同ですから」
隊長がこちらに顔を向けたのが分かったが、私は下を向いたままでいた。
「私が止める機会はあったのだ。桜を持ち出した下級貴族の席官も、私の知り合いだ」
それは桜が咲き始めた報告を聞いてここに訪れた日。私ではなく見知った先輩の席官がいた時、なにかひとこと言っていれば、知らぬ間に桜が運び出されるようなことにはならなかったということだった。
たしかに、隊長が目をかけている桜と知っていれば、勝手に持っていかれることはなかっただろう。
でもそれなら、その前に先輩といた私の方が落ち度があるのだ。
「誰のせいでもありません。誰にも悪気は、なかったですから」
残念な気持ちはあるけれど、それはもうしかたない。
「隊長は、咲いた桜、見れましたか?」
「……ああ」
隊長は穴へと視線を戻す。
「美しかった」
「そうですか……。だったら、よかったです」
手の土を払い、私は地面に置いたままだった荷物を持ちあげた。
いちばんあの桜を愛でてくれる人が見てくれたのだ。自己満足に他ならないが、それで本当によかったと思った。
「来年は、我が邸に来い」
「え……」
「そなたが懸命に育て、私は美しい桜を見せてもらった。来年は、我が邸の桜をそなたに見せよう。美しさは違えど、やはり咲いた桜はいいものだ」
私は驚いて隊長の横顔を見つめていたが、隊長の視線を追い、あいた穴に目を向けて、首を横に振った。
「お気持ちだけで、私は充分です」
そこまで言って、私は少し顔を上げた。
「……あ…の、でもよろしければひとつだけ、お願いを……きいてくださいますか?」
それから少しして、私は再び隊長に会った。
隊長は私の願い事を聞いてくれ、私の手に小さな実をひとつ、落とした。
それはあの小さな桜の花の付けた、小さな小さな実だった。
受け取った実を両手で包み、私は頭を下げて隊長に礼を言った。
あの桜が実を付けたらその実をひとつもらえないかという図々しい願い事を、隊長は快諾してくれた。
それだけでいいのかとさえ言ってくれたが、それで充分。ひとつだけ、欲しかった。
隊長は約束通り知り合いだというその下級貴族の席官の家を訪れ、実をもらってきてくれた。
相手は四大貴族であり六番隊隊長である朽木隊長の直々の訪問に恐縮したらしいが、あの桜を育てていた者がいたことを知って、申し訳ないことをしたと言ったらしい。
もちろんその話は隊長から直接聞いたのではないが、隊長は相手にそれが私であることは言わなかったようで、結局その話が私に繋がることはなかった。
正直、ほっとした。
桜は今は盆栽のように鉢植えになっているらしく、植え替えによってしばらくのあいだ弱っていたようだが、来年にはまたちゃんと花を咲かすだろうとのことだった。
朽木隊長とは、実をもらったとき少し話をした。
私が桜のためでなく、隊長に会い、桜を見せたい自分のエゴのために桜の世話をするようになっていたこと、そんな自分が嫌になっていたこと、現世任務が入って正直ほっとしたこと。
そんな自分勝手な私の気持ちに、桜が汚されるような気がしてならなかったこと。
隊長は、私のどうしようもない話を最後まで聞いてくれた。
「桜は、なにがあっても咲こうとする」
最後に、隊長はゆるやかな声で言った。
「どういうつもりであろうとも、そなたが世話をしたからこそ、あの桜は無事に春を迎え、花を付けたのだろう。桜はただ咲く。そんな思いに傷つくとすれば、それは自分自身に他ならない。人同士でも同じことだ。相手をどれだけ蔑み、利用してもそれによって落ちぶれるのは、そんな感情を持った者自身だ」
隊長の言葉は、すっぱりと私を斬った。
「それでもその感情を嫌悪し、間違っていると思うのなら、そなたが堕ちることはないだろう」
「あの桜は、美しかった。私はあの桜を見せてくれたそなたに、感謝している」
隊舎と宿舎を繋ぐ抜け道。
その奧を、私は進んでいく。
奧の奧、人など間違っても入らないような場所で足を止め、しゃがみ込む。
雑草の少ない場所を選んで、そこの土を手で少し掘り返して持っていた小さな実をそこへ落とした。
芽が出るかも分からない。けれど私と共に生きてくれることを信じて。
翌年の春。
小さな芽を出した桜の元へ、私は通う。
隊長がもらってきてくれた実はたしかに芽吹いて、あの桜と同じように弱々しくもまっすぐに、茎のような枝を空に向ける。
大きな空に、小さな薄桃色の花が咲くのはいつだろうか。
隣に佇む小さな命に目を向けて、私は微笑んだ。
小さな小さな、桜の話。
END
------アトガキ-------
と、いうわけで。
うはー、こっぱずかしいにもほどがある!なんだこの自虐プレイ!
もう内容になど触れはしません。なんだこの無糖!私が言いたいのはそれだけです。
自分でも忘れてたこの1話。もうどうしてくれよう。っていうかどうにでもして\(^o^)/
ネット開通祝いに、とりあえずこの一本。
もうー…さて、連載に戻りましょうそうしましょう。
50万打ありがとうございました!
そんなわけでネット高速化の波が我が家にもやってきましたので、これからまた更新頑張ります。
その前にレスしてきます^q^
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