それから流れるように一年がたち、相変わらず朽木隊長とは何の接点もなく日々を過ごしていたけれど、春が近づくに連れ、隊長を見るたび心が騒いだ。

 朽木隊長はあの小さな桜を覚えているだろうか……?

 言葉を交わすこともないから確かめるすべもないが、嵐が来、深く雪が積もりするたびに私はまだ頼りのない小さく桜の世話を焼いた。

 純粋にこの桜の花を見たいのももちろんだが、やっぱり朽木隊長のあの日の横顔が浮かぶのも事実で。

私は胸に詰まるようにたまった息をそっと吐いた。













 そうしてようやく迎えた春、ほぼ毎日のように桜を訪れるようになっていた私は、例年になく冷え込んだ今年の春に憂いていた。
 つぼみを付けても暑さが足りず、花を咲かせずに葉を付けてしまった桜が今年は多かった。
 まだあの小さな桜にとっては時期ではないが、ちゃんと咲いてくれるだろうか。





 あの人は……覚えているだろうか。














席官に提出する報告書を持って、私は隊舎の廊下の木目をたどるように歩いていた。

 その時だ。さしかかった角をちょうど曲がって現れた朽木隊長とばったり出くわし、瞬時、私は狼狽した。

 最初は面食らったけれども、阿散井副隊長となにごとか話ながら歩いてくる隊長に、他の人と同じように無言のまま頭を下げてすれ違おうとした。

 けれどそれまで少し横を向いて副隊長と会話していた隊長が、すれ違い際に一瞬こちらを見て、ふと思案顔になって足を止めた。



「そなたは……」



 私は驚いて、同じように立ち止まっていた。

 山ほどの隊員を抱える朽木隊長は、普段顔を合わせるのもまれなひとりの平隊員を前にしばらく考えていたようだったが、やがて思い至ったのか、ああ、と口を開いた。



「そなた、桜の」



 隣で不思議そうな顔をする阿散井副隊長をよそに、朽木隊長はさらに言葉を続けた。


「あれはもちそうか?」


 毎年恒例の隊の花見が先日、ほとんど咲かずに終わった桜のために中止になった。
 他の桜に違わず、すこぶる不調の小さな木を思い、私はゆっくりと口を開いた。



「まだ、分かりません」



 ダメかもしれないと思っていた矢先だったけれど、隊長を早々に失望させたくなくて、私はそう言った。
 私以外に足を運んでくれる者もなく、このまままた一年を巡ることになるあの小さな桜が哀れにも思えて。
 もしできたなら、たとえあの桜のつぼみが開くことがなくても、桜の精に愛でられたようなこの人が、あの小さな桜を訪れることがあればいいと。そんなことを思ったからだった。








 隊長に桜の経過報告をしてから二週間がたち、ようやく小さな桜はあとは開くだけの充分な大きさまでつぼみを膨らませた。

 やっとここまでこぎつけたというか。
 桜の根元を保護するために置いていたわらの束を回収しながら、私は息をつく。
 いくらこの桜が極端なまでの遅咲きといえどもあまりに遅すぎる開花になるが、どうにか咲いてくれそうでなによりだ。

 そう思った瞬間、




「まだ、蕾か」




 あの耳に心地いい声が飛び込んできて、己の頭部は反射的に機敏に動いて、背後を振り返った。


彼の人はもう私の傍までやって来て、桜を見おろしていた。
女の私よりつややかな黒髪が、風に遊んでいた。



「あまり遅いと、たとえ咲いても梅雨に花を落とされるだろう」



 あ……と私は声を漏らす。
 雨のことを、考えていなかった。



「気温と同じく、雨期も遅れて来ればいいが」



 私が全く思い至らなかった懸念を口にした隊長は、様子を見るようにそっとつぼみを付けた桜の枝に手を触れた。


 私の横をすり抜けた隊長の袖から、ふわ、とやさしい香りがした。

 しゃがんだひざの上に乗せていた私の手に、隊長の袖先が擦れて、手と心がたまらなくくすぐったい。



「咲く……でしょうか?」



 指先まで綺麗なこの人の手の中にある桜の蕾を見ながら、照れ隠しのように私はつぶやいた。



「遅咲きが幸いして寒さに花を落とすことはなかったようだが。どうであろうな」



 桜から手を離し、かがんだ姿勢を戻した隊長は、私の視界から外れる。
 不意に、頭に心地いい重さとかすかな温もりを感じた。



「桜は懸命に咲こうとする。そなたの献身な世話もあるのだ、期待はしてもよかろう」



 暖かさを感じる、なだめるような優しい声だった。


「桜の花が開いたら、私にも教えてくれ」


 ふっと頭を包み込むように乗せられていた、さっきまで桜に触れていた隊長の手の柔らかな感触が離れ、完全に不動になっていた私が我を取り戻し振り返ったときには、すでに隊長は木陰に姿を消すところだった。




 ばれてしまったか……。



 隊長が見留めたであろう、寒さ対策のために置いていた手中のわらに目を落とし、私はぎこちない動きで苦笑した。
 本当は、この桜が人の手に掛かってこの一年を乗り越え、花を付けたことは知られたくなかった。

 他の桜の木もない、手入れもされていないこの人目に付かない裏庭の奧で、根を張り、一時、一時を刻む小さな桜。
 私のこんな手助けなんて後付けみたいなものだけど、この桜がたったひとりで、細くてもたよりなくても、他の桜と異なっても、しっかりと生きていることが私の心を暖かくさせていたから。


だけど、やっぱり隊長の暖かな声と手も私の心を揺さぶったから、いまさらになって少し顔が熱くなってそっと自分の頭に手を触れた。














 それから一週間ほどして、桜のつぼみはゆるゆるとゆるみ、ゆっくりと花びらを開きはじめた。

 小雨が降ることもあった最近だったから内心冷や冷やしていたのだが、これなら雨期が来る前に見頃を迎えられそうだ。
 一度つぼみが開く気配を見せ始めると、それからは今までのじれったいのが嘘のようにするするとかたくなに閉じていたつぼみが、繊細な花びらを広げだした。


 三日も経つと花は本格的に開き、見頃も目前の五分咲きとなった。





 花が開くにつれ、私はこの一年にないくらいにそわそわした。
 隊長の霊圧を近くに感じるだけで、もう言いに行った方がいいのかと葛藤のように考えあぐねた。
 花がゆるゆると、それでも確実に今までにないスピードで花を開いている桜の木に、今までとは真逆の焦りを覚えながら、朽木隊長の一日の行動全てを把握してしまうほど、あの人の霊圧に全神経を集中させる私がいた。



 
ここに来て、私の勇気が足りないというつまらない話で見頃を逃すなんて、笑い話にもならない。


 言わなければ、言わなければと思い続けながら、廊下を歩く隊長を見かけても、数人の人が周りに点在しているだけで怖じ気づいて言葉がのど元で詰まる。

 人見知りする方でもそこまで臆病な自覚もなかったが、どちらかと言えばおとなしく地味で目立たない私が、私事で、それも常に忙しそうな隊長に勤務中声をかけてもいいものなのか……
 もちろんそんなものは言い訳みたいなもので、桜が開きはじめていることを伝えても隊長から咎めなどあるはずもないのは分かっていたが、他の隊員に平隊員の私が仕事でもなく話しかけるところを見られるのは私が気まずく、やっぱりあと一歩で声をかけそびれるのだった。


 今日中には。もう明日には延ばせない。

 そう思うたび、体に変な力が入るのが分かる。
 朝、渡り廊下を歩きながら例によってそのことばかり考えていると、ふとここ数日でずいぶん体になじんでしまった霊圧を感じた。
 確かめるまでもない、きめ細かいような信じられないくらい密度の高いこの霊圧は、朽木隊長だ。
近い。


 うつむいていた顔を上げ、周囲を見まわしたとき、窓の向こうに見える別の廊下に朽木隊長の姿を見つけた。斜め後ろ姿だが、間違えるはずもない。白い隊長羽織、襟巻き、牽星箝が陽の光にまぶしかった。


「た、た隊長…!」


 この数日のためらいが嘘のように、隊長の姿が見えた瞬間に声が飛び出していた。 
 それも情けないくらいどもっていて、呼ぶ声はしりすぼみになるというへたれ具合だ。
 声が裏返りかけるように震えていた気さえする。


 けっして大きな声ではなく、窓を開けるという対処もしなかったので、このまま隊長は行ってしまうかと思ったが、声をかけて一拍の間を置いたあと、視線を巡らせるようにして立ち止まったのが見えた。


 朽木隊長の視線が、私をとらえる。
 その時自分がひどく不安げで、しかも泣きそうな顔をしていると分かったが、実際そんな心境だったから表情は変えられなかった。


「さっ、くら……! 開いて……」


 文章にもならない単語を放った声が、狭い渡り廊下の中にこもるように響くのを感じた。
 隊長のところまで声が届いているかどうかも怪しい。



 それでも少しの間私を見つめた隊長が、ふ、と表情をゆるめて頷いてくれたから、ああ伝わったのだとこれ以上ないくらい大きな安堵の息をついた。











 



それから終業の時間まで、私の心も体も信じられないくらいに軽かった。

 あとは花が咲くのを見届けるだけ。

 そう思って自然笑みがこぼれてくるのをとめられないまま、帰り道に桜の元に向かうべく立ち上がった私は、下位席官のひとりに声をかけられた。
















 夕暮れの中、私は桜の元を訪れた。

 桜はもう少しできれいに咲いてくれるだろう。
 その光景を思い浮かべて、私は苦笑した。

 よりによって、そのちょうど見頃になるであろう数日間に、現世への短気任務が入るなんて。



 桜の前に小さくかがんで、つぼみを見あげる。
残念な話には違いなかったが、私は納得していた。

もちろんこの桜のいちばん美しい時期を見たかった。
けれどこの一年で、私の中ではじめて桜を見つけたときに思った咲いた桜を見たいと思う気持ちを、隊長に咲いた桜を見せたいと思う気持ちが越えていた。

私はこの桜の世話を、桜を見たい自分のためでも、桜そのもののためでさえなく、もしこの桜がなければまともに関わることもなかったであろう隊長との接点を保ちたいがためにしていたのだ。


 それは改めて認識するまでもなく、徐々に移行する自分の気持ちには最初から気づいていた。


 あまり綺麗な気持ちではない。
 少なくとも、この桜よりはずっと。


 なんだかこの桜の世話をするのにも、そんな自分のよこしまにさえ思える気持ちに後ろめたさを感じて、このまま桜が綺麗に咲いて、隣に隊長が立って、桜と同じくらい綺麗にあの人が笑ってくれたとしても、素直に喜べる気がしなかった。


 もし、もっと単純に朽木隊長の喜ぶ顔が見たいと思えていたのなら、こんなふうには考えなかったのだろうけど。



 朽木隊長は、私が純粋に桜の花のために世話をしていると思っている。
 それがなおさら、私の心の隅に小さな罪悪感のようなものを残すのだ。

 あの美しい人は、この愛らしい桜をあるがまま愛でるのに、私は桜の美しさを、それを喜ぶ隊長の慈愛を、利用している。
 きっと今の私は、隊長の一割にも満たないほども、桜を愛でていない。


 べつに罪と呼ぶほどのものでもないのだろうけど、自分で許してしまったら本当に堕ちてしまうような気がして。
 だから現世任務が入って、たとえそれが逃げでもよかったと思うのだった。



 


 たとえ朽木隊長に近づくのが目的でも、隊長の家柄や地位や、容姿以外の、彼自身に惹かれたのだと断言できたなら、もう少し自分を許せたのかも知れない。
ただ【隊長】に私を認識してもらえて、【隊長】と言葉を交わすことが出来たのが嬉しくて、それ以上望むつもりもそんな考えも、あまりに大それていて持つことはないけど、やっぱりそれでも桜そのものの価値をよそにして接点だけにしか目が行かなくなりつつある自分は不純だ。

そんな自分が自分で嫌だったし、なによりこの桜にも、隊長にも、申し訳がなかった。






 



「あら、あなた。こんな所にいたの?」

 不意に、するはずのない女性の声が聞こえて、私は顔を上げた。

 木陰から顔を出していたのは、もちろん隊長ではなく、彼よりも身近な上司である席官の先輩だった。

「こんな所でなにしてるの?」

 はきはきとしている彼女は続けざまにそう問うと、隣までやって来た。

「なんだか終業前、様子が変だったから追いかけてきたのよ」

 そう言いながら彼女は視線を落とし、そして桜を見つけた。
印象的な大きな目が、少し開く。

「あら桜? こんな時期に咲いてるの」

 よく透る声で驚きを示すと、腰を屈めて先輩は桜を眺めた。
 今まで朽木隊長と私しか来たことのないであろう場所は、二人でいても静かだったのが、声も身振りも大きな彼女の存在でがらりと空気が変わった。


 なんだか、桜が萎縮してちっぽけに見える。


 朽木隊長がはじめてここに来たときもそう思ったが、あのときとはまた違う感じ。
 桜がひどく、安っぽく見えた。


 知らぬ内に、私は少し顔をしかめていた。



「へー、知らなかった。こんなところに桜なんてあったのねー」

 おおざっぱな動きで先輩が桜に手をのばすと、細くのびていた枝の先がぽきりと折れた。

「あっ」

 思わず私は声をあげた。

 折れたのは本当にさきっぽの十cmほど。
 桜の生死には関わりないだろうが、雪や風に枝を持っていかれないよう、一年間見守り続けてきた私にとっては一瞬の動揺を与える。


 先輩は私の声にも折れたことにも大して反応を示すことなく、落ちた枝先を白い指先でつまみあげた。



「この桜、大きくなるまで生きていけるのかしらねー。 その前に枯れるか折れるかしちゃいそう」


 見る人によって、この桜の価値は違うんだな。
 私の瞳はガラス玉みたいに、ただ先輩の手の中にある桜の枝を映して、ぼんやりとそう思った。




 あの人は、桜の枝が折れたら、やっぱり何の反応も示さないだろうか?



















「……?」

「えっ、隊長っ?」


 白哉が裏庭の小さな桜の元を訪れたとき、そこにはいつもとは違う女性がひとりで立っていた。
 それにずいぶんと強烈な違和感を受けながら、五分咲きの桜に視線を落とし、それから部下である席官の手の中の小さな枝へと目を向けた。


 少し、眉根を寄せる。


 中途半端に開いた薄桃色のつぼみのついた枝は、間違いなくこの小さな桜の木の一部だろう。ほかに、この時期まで咲いている桜はないに等しい。

 周囲を探るようにうかがってみたが、近くにこの桜のことを教えてくれたあの隊員の霊圧や気配はまるで感じなかった。


「隊長、どうしてここに?」

 普段、仕事の上で言葉の交わすことの多い席官である彼女は、何の気負いもなく白哉に声をかけた。


「いや、私は……」


 そこまで言って、言葉を止めた白哉を気にする様子もなく、彼女はにこやかに言った。


「見てください隊長、桜ですよ。あたし最初、桜じゃなくて別の木かと思いましたよー。隊員の子の後追ってきたんですけどね、こんな桜あるんですねぇ」


 さばさばとした口調に、黙したまま白哉は再び桜に目を向ける。
 ゆるやかに花を開きはじめた桜の木は、いつもより小さく見えた。
 枝が折れたせいでは、ないだろう。


 そのあとも席官が何か言ったが、内容は半分も白哉の耳には入らず、ただ、しゃがんでこの小さな桜を見ていたあの娘の、小さな背中を思いだしていた。





















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